2019.11.5
海に墜ちる
その事故から2年ほど経ち、冬が近づく11月の終わり、ぼくはテレビの撮影現場にいた。ぼくが原作を書いた「夜光虫」がドラマ化されることになったのだ。この話は、すべてヨットの上が舞台だったので、ぼくのヨットで撮影しようという話になった。しかし、撮影するにあたって、伴走艇が必要となる。そこで、友人に声をかけて船を借りることにした。これが、パラオに向かう途中で死者を出した船だったのだ。
撮影クルーが乗船したところ、ぼくの船よりこちらの船のほうが大きかったので、ぼくの船を伴走艇にすることにした。死者を出した船をぼくが操船し、伴走艇になったぼくの船は友人が操船を担当した。
撮影は進み、あたりはすっかり暗くなってきた。遅くとも夜の8時までに終わらせないと、みんな船酔いしてしまう。海に不慣れな者にとって、昏い海を走る船上では、とりわけ船酔いしやすいのだ。
そこで、沖合で二隻をくっつけて、撮影が終わった人間からひとり、またひとりと伴走艇に乗り移ってもらうことになった。
撮影も終盤に差し掛かった頃、若い男の役者が船酔いで苦しんでいるのに気づき、撮影が終わるまでキャビンで横になるように促した。キャビンにはベッドが置いてあって、その上にはハッチがある。ハッチは透明なアクリル板で、閉めればその上を人が歩けるようになっており、デッキライトがついているので、ベッドで寝ながら見上げると、薄暗いながらも外の風景が見える。
撮影が終わって、テレビクルーも半分以上は伴走艇へと乗り移っていた。
そろそろ彼を呼びにいこうと、キャビンに向かって声をかけた。船酔いは治まったらしく、顔色が戻っている。撮影が無事に終了し、クルーも引き上げつつあることを伝えると、彼は不思議そうな顔をして訊ねてきた。
「あのおじさんは誰ですか?」
ハッチの上を音もなく人が歩いていったというのだ。見たこともない男性だと言う。もちろんその役者は撮影スタッフをみんな知っているし、クルーの多くは既にいない。
そこで、彼にどんな人だったのか訊ねた。すると彼は言った。
「口ひげを生やした小柄な初老の人で、こんな季節なのに短パン一丁だったんですよ」
ぼくの意識は一瞬で2年前に戻された――。
ヨットに乗っていると、「優雅ですね」とよく言われるが、船に乗るということは常に死と隣り合わせなのだ。それは決して忘れてはならない。
*本連載「海の怪」が、9月4日に書き下ろしを加え書籍として発売されます。
あの稲川淳二氏から「心地好い恐怖に浸るうちに怪異な闇に呑み込まれてゆく。極上のミステリーに酔い痴れました」という絶賛コメントもいただきました!
稲川氏とのコラボレーション動画も配信予定です。
どうぞお楽しみに。
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