よみタイ

寿木けい「土を編む日々」

第20回 味目録

 自分の舌で自分を遊ばせることができるから、食事は楽しい。
 なかでもよく作るのが、もやしや鶏挽き肉などを炒めた具をレタスで包んで食べるレシピだ。ハノイか、台中か、それとも新大久保だったか──こんなようなおいしい食べ物があったなあという記憶を頼りに、目録をざっと再生し、台所で再現してみる。レタスともやしは、値段を見ずに買うことができる数少ない野菜。子どももこれをおやつに食べるのが大好きで、レタスを見ると、子どもながら何かを期待するような目つきになるのがおもしろい。

 鶏の挽き肉に胡椒、ナンプラー、醤油、砂糖を前もって加えて混ぜておく。フライパンに油をひき、挽き肉を炒める。加熱前に調味料を加えておくことで、しっかり味が入るし、火を前にして慌てなくていい。そこへもやしを加え、熱が全体にまわって温まったら、ベビースターラーメンをざざっと振りかけて火を止める。これを、水にさらしてぱりっとさせたレタスでくるんで食べる。
 涼しいレタスに包まれた甘っこい鶏肉と、ちょうどいい塩梅で火が通ったもやしで口のなかがいっぱいになる。ベビースターラーメンがうるさく割れて、気がつけばレタスひと玉があっという間になくなっている。ナッツや大葉などを加えてもおいしいけれど、私はこの食べ方が飽きがこなくて好きだ。
 この料理以外には、申し訳ないけれど、もやしというものをほとんど買ったことがない。「萌やす」の語源の通り、もやしはいつも体内に春を抱えている。ハウス栽培のおかげで旬というものを持たないから、永遠に春だけを生きる野菜ともいえる。ずっと昔、どこかの誰かが、発芽した豆の新芽を食べてみることを思いついた。それはおそらく、うららかな春の日だったろう。

 二年前の春、集めてきた味の目録を一枚、また一枚と見失ってしまったことがあった。
 ストレスと疲れが溜まって副鼻腔炎が悪化を繰り返し、嗅覚がどんどん失われていった。撮影が控えているのに、味も匂いもわからず、試食の際には夫に隣で解説してもらったこともある。当然だが、他人の言葉を借りて補えるものではない。暗闇に立っていることが一層浮き彫りになるだけで、この仕事を続けられなくなるかもしれないと覚悟した。
 味わいと嗅覚との関係において、「口は実験室、鼻は煙突」と言ったのは、政治家で美食家のブリア・サヴァランだ。私の煙突は、故障したのだ。
 幸いにもいい先生を見つけ、半年間の治療を経て、現在も経過は良好だ。
 香りと味が復活したら、世界に色が戻ってきた。今でも、忙しい日が続くと鼻の奥がじんと熱をもってかゆくなる。そうなったら、早めに布団に入るようにしている。
 記憶に鮮やかな形を与えてくれたのが嗅覚なら、働きすぎないで自分を大切にしなさいというメッセージを知らせてくれるのもまた、この小さな鼻なのである。

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寿木けい

すずき・けい●富山県生まれ。早稲田大学卒業後、出版社で雑誌の編集者として働きつつ、執筆活動をはじめる。出版社退社後、暮らしや女性の生き方に関する連載を持つ。
2010年からTwitterで「きょうの140字ごはん」(@140words_recipe)を発信。フォロワーは現時点で12万人以上。現在、東京都内で夫と二人の子どもと暮らす。
著書にロングセラー『いつものごはんは、きほんの10品あればいい』、エッセイ集『閨と厨』、版を重ねている文庫版『わたしのごちそう365 レシピとよぶほどのものでもない』(河出書房新社)があり、いずれも話題となっている。

寿木けい公式サイト
https://www.keisuzuki.info/

砺波周平

となみ・しゅうへい●写真家。1979年仙台生まれ北海道育ち。
北里大学獣医畜産学部卒業。大学在学中から、写真家の細川剛氏に師事。
2007年東京都八王子市に東京事務所を置く傍ら、八ヶ岳南麓(長野県諏訪郡富士見町)に古い家を見つけ自分たちで改装し、妻と三人の娘、犬、猫と移り住む。
写真を志して以来、一貫して日々の暮らしを撮り続ける。現在、作品が「暮しの手帖」の扉に使用されている。東京都と長野、山梨に拠点を持ち活動中。

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