よみタイ

寿木けい「土を編む日々」

第5回 愛しい四文字

 じつは、子どもが初めてリクエストした料理名が、きんぴらだった。
「きんぴらって、あの、ごぼうの硬いやつのこと?」
 幼い口調ときんぴらの響きがちぐはぐに思えてこう確認すると、子どもは大きくうなずいた。

 自分だけの楽しみに取っておいたきんぴらの領域に、思いがけずわが子が入ってきた驚きは大きかった。

 それまで、きんぴらは私にとって、自分のために作る料理だった。
 年子を育てながら、柔らかくて消化にいい離乳食ばかり作っていた私は、噛むことに飢えていた。食事が済んで子どもたちの機嫌がいいときを見つけてはきんぴらを作り、「おかあさんのごほうび」と宣言してむしゃむしゃ食べた。
 噛みしめていたのは、ごぼうだけではない。人心地つく時間そのものだった。

 このきんぴらを、バゲットやバタールなどのフランスパンに挟んで食べるのも大好きだ。
 あるとき、原稿書きの合間に、少しだけ残ったバゲットに同じく少しだけ残ったきんぴらを挟んで、横着な昼食にしてみた。
 醤油味のものをパンに挟むなんて、と眉をひそめられるかもしれないけれど、小麦もごぼうも醤油も、鼻に抜ける香りにどこか土くさい懐かしさがあり、ほかの食材には替えられないほど相性がいい。
 きんぴらは一日経って味がこなれているものが最高だ。パンは、きんぴらに負けない噛みごたえと塩気のきいたものがほしい。飲み物は絶対、牛乳。

 思い通りに進まない原稿に苦戦し、えいやっと匙をなげようかというときにかぶりつけば、いっときの平穏と満足が訪れる。いつだって、こうしたひとりきりの時間が雑音をしずめ、再び立ち上がるための小休止になる。

 最後にひとりだけの贅沢な時間を外で過ごしたのは、あの『みますや』だった。
 虫の知らせだろうか、
「今日しかない」
 三月の寒い日、神保町の出版社に寄ったその足で、開店と同時に訪れたのだ。
 通されたのは厨房前の大テーブル。まずは白鷹の燗酒ときぬかつぎを。それから、さくらの刺身ときんぴら。いつもと同じ頼み方だ。

「粋な飲み方、されますよね」
 四十分ほどで席を立った私に、お店のひとがこう笑顔を向けてくれた。
 二十四歳のときに観光気分で訪れ、子育てで足が遠のいた数年を経て再び通うようになったこの店で、こんなふうに認められたのは初めてのことだった。
 お礼を言って、最初の予約客と入れ違いに暖簾をくぐって通りに出た。どこか後ろめたく、誇らしい。特別な店とは、そういう店だ。

 日常が戻ってきたら──誘いたいひとの顔が、何人も思い浮かぶ。
 しかし、私はきっとまたひとりでこの店を訪れるだろう。好きな場所へ体を運ぶ自由を、静かに味わうだろう。

 家でも職場でもない居場所をもつことは、都市に暮らす面白さである。
 歳を重ねながら積み上げてきたいくつもの思い出が、舌の記憶を育て、食べるよろこびと作る探究心へと形を変えていくのだ。

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寿木けい

すずき・けい●富山県生まれ。早稲田大学卒業後、出版社で雑誌の編集者として働きつつ、執筆活動をはじめる。出版社退社後、暮らしや女性の生き方に関する連載を持つ。
2010年からTwitterで「きょうの140字ごはん」(@140words_recipe)を発信。フォロワーは現在11万人以上。著書に『わたしのごちそう365 レシピとよぶほどのものでもない』、ロングセラー『いつものごはんは、きほんの10品あればいい』、エッセイ集『閨と厨』がある。
現在、東京都内で夫と二人の子どもと暮らす。

砺波周平

となみ・しゅうへい●写真家。1979年仙台生まれ北海道育ち。
北里大学獣医畜産学部卒業。大学在学中から、写真家の細川剛氏に師事。
2007年東京都八王子市に東京事務所を置く傍ら、八ヶ岳南麓(長野県諏訪郡富士見町)に古い家を見つけ自分たちで改装し、妻と三人の娘、犬、猫と移り住む。
写真を志して以来、一貫して日々の暮らしを撮り続ける。現在、作品が「暮しの手帖」の扉に使用されている。東京都と長野、山梨に拠点を持ち活動中。

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