2024.11.20
感動的なほど働きやすい転職先で起こった「セクハラ事件」 第19話 事務職の楽園追放
『まじめな会社員』で知られる漫画家・冬野梅子が、日照量の少ない半生を振り返り、地方と東京のリアルライフを綴るエッセイ。
【前回まで】:勤め先の金融機関を晴れて辞められた冬野さん。次に狙うは、「事務職」という憧れの職種でした。
(文・イラスト/冬野梅子)
第19話 事務職の楽園追放
6月に前の職場を辞めてから3ヵ月、私は恵比寿にいた。IT企業の事務職を得たのだ。
最初は緊張していたが、しばらくしてふと気づいた。毎朝改札を通る時にびっくりするほど気が滅入っていない。面倒くさいなあとか、行きたくないなあ、という気持ちはあるが、それはせいぜい朝起きるのが面倒とか、仕事がかったるいという程度のもので、金融機関にいた頃の重苦しい気分からは解放されていた。前はずっと、がん検診の結果を待つ時のような、最悪の事態を告げられた場合に備えて腹の底にある何かを押さえつけ必死に耐えるような、そんな鬱々とした気分が全身から離れなかった。それがもう、ない。
転職活動には苦労したと思う。決まるまで3ヶ月以上かかったし、分かってはいたが、金融機関で毎日毎日専用の端末を操作し、事務手続きが改正されるたびに新しいルールや手順を必死で覚えたとしても、Excelの実務経験のない社会人なんか一般の事務職にはお呼びでなかった。かといって、自分の経験を活かせそうな保険会社の事務にも受からない。もう対面で人と接する仕事はしたくなかったので、いつも自分たちの預かった書類を送る「事務センター」と呼ばれる書類チェック専門部署のような仕事を探して応募するが、さすが同じような業界の人はわかっていて、私のような末端の仕事をしていた人は雇わない。言い方は悪いが、書類チェック専門の部署に比べて、一般の客相手に営業したり接客したりする窓口の社員の方がランクが低いとみなされているのだ。わざわざ学歴的にも優秀じゃないことが明らかな、下の仕事をしていた人間を雇う会社などない。私の一方的な解釈だが、少なくとも私の勤めていた金融機関ではそういう上下関係があった。
ハローワークに行った時も事務は倍率が高いと説明があったが、本当にどこにも受からない。退職届を出す少し前から、ファッション誌のスナップページにいる人のプロフィールを見て、「えみ(24歳・事務)」という文字を目にすると手を止めていた。接客も営業もしなくていい仕事、世の中にはそんな仕事がある……ああ、どんな世界なんだろう、と。まさか本当に、こんなにも必死になって渇望する職業に変わるとは思わなかった。事務職を……内勤の事務職をする人が心の底から羨ましい。保険会社の事務は履歴書すら通らず、小さな部品メーカーの面接では「うちはねえ、ショムニ課みたいなとこですよ? せっかくねえ、銀行さんにいたんならねえ、もっと他あるでしょう」と言われて落ち、転職活動は暗雲が垂れ込めていた。
記事が続きます
一度、一般社団法人の面接では、女性面接官から「営業が苦手? あのねえ、私も以前はやってましたけど、結果を求められるのなんか当たり前なんです!」と激しく怒りを露わにされたこともあった。私は面接ではやんわりと、でも必ず、営業はやりたくない旨を伝えるようにしていた。ただし、無能感が出ないよう言い方には気をつけ「事務の仕事にやりがいを感じていたが、ある時から営業成績が評価の中心となり、会社が求めるものと自分自身に齟齬ができたため辞めた」という言い方を採用していたのだが、その時はうっかり苦手というようなことを言ってしまったのだろう。面接官の、好戦的な、でも社会人として最低限の理性を保とうと口元を笑顔にしながら噛みついてくる様子に、こっちだって毎日毎日お前みたいな客に笑顔で対応してたんだ舐めるなよ、という闘争心が湧いた。いつものように、キレた相手の面子を保って差し上げるため怒りになんか微塵も気づいてない顔を作り、ことさら優しい口調で説明をやり直し誤解を解いた。私はずっと、自分の仕事なんてラクそうなぬるま湯で、そんな経歴を一般企業の人たちは半端な社会人だとバカにするだろうといつも身構えていた。しかし、普通の中小企業ではむしろ、「銀行=真面目できちんとした人」と受け取るようだった。そしてこの時までは、一般社団法人なら、傍目にはラクそうに見える仕事の辛さをわかってくれるだろうと期待して受けたのだが、少なくともここの面接官は金融機関ごときの簡単なセールスで音を上げる甘ちゃん、と受け取ったようだ。電話営業や訪問営業、金融商品のみならずお歳暮・お中元のノルマについても説明したところ、「そんなことまでするんですか?」と態度が軟化した瞬間、ああ、この人も、入社前の私と同じくらい「誰でもできる仕事」と見なしているのだと納得した。私だってこの仕事を軽んじていたからこそ辞められなくて辛かったのだ。この数年間、身近でも転職をする友人は少なくなかったが、友人たちは明らかに激務だったり、会社の雇用形態や上司に問題がある人ばかりなので、誰も転職に異論などなかった。でも私はどうだろう。せっかく入った金融機関を、安泰の仕事を、終電帰りの営業職や週休2日も取れない販売職より楽チンな仕事を、「嫌だ」なんて子供っぽい理由で辞めるなんて、友人だって呆れるだろう。でももう、呆れられていい、私はみんなと同じような誇りある仕事道は歩めない。でももういい。そういう気持ちだった。そういう気持ちに持っていくまで、何年もかかった。
記事が続きます
なんでもっと早く転職しなかったんだろう。転職して毎日そう思った。今までの日々を振り返ると笑っちゃうくらい、事務の仕事には感動した。まず、基本的に座っていられるなんて驚きである。前職の窓口でも座って事務作業をしてはいたが、苛立った客を目の前にした時は追加で怒りを買わないため中腰で作業をして、お年寄りには身を乗り出して大きな声で、看護師さんのような声色で優しくのんびり説明し、苛立った客からの横やりには客室乗務員のような緊迫感を持って、聡明な顔を作りながら謝罪し頭を下げた。今はもう、ゆっくり座って、目の前の自分の仕事に集中していいなんて……。さらに、いつでも自分のタイミングで飲み物を飲んでいいし、小腹が空いたら何かつまむくらいは許される。なんて、高級な仕事なんだ。今までなんだったんだ。こんな世界があるなんて。ついでに、この会社ではビルの清掃員がいるため、ゴミ出し、掃除、トイレ掃除だって社員がやらなくてよかった。文化が違いすぎて外国に来たようだ。
今までを振り返るともう泣けてくる。ATM画面の小さな血痕のようなものを拭き、感染症を危惧してこっそり雑巾を捨てた日、「おばあちゃんがおしっここぼしちゃって」と、おそらく尿がかかったと思われる通帳を素手で受けとり新通帳に切り替えた日、今では信じられないが「マスクは失礼だから」という謎の理由で、インフルエンザの時期もノーマスクで客の無節操な咳を浴びた日々、挙げたらきりがない。傍目にはくだらないと思うかもしれないが、接客、営業電話、営業インストラクターに張り付かれながらの訪問営業、週に一度はカスハラ対応、数ヶ月に一度の勉強会の交通費は自腹、それに加えてこれらの衛生面が不安になる仕事を毎日やって手取りが20万未満なのだ。そりゃ荒むわ。
記事が続きます
この仕事だって給料は安い。手取り17万程度だった。生活は苦しいが、前より楽だし、事務未経験のアラサーなのでもう必死だったから仕方がないと思っていた。金融機関を辞められれば、生きていければそれでいい。転職という幸運と引き換えに、“普通の人生”は捨てたのだ。
普通の人生とは、当時の私としては主に子供を持つことを指した。退職届を上司に渡した日、いつもの道の葉桜になった桜の木を見上げて「もうこの桜を見ることもない。私は……謎の独身老婆になる」と思った。決心じゃなく末路として。たかが転職なのに、私にとっては人生を賭けた大きな決断だった。これは突発性難聴によって突然降って湧いた考えではなく、ずっとぼんやり考えていたことが少しずつ固まったタイミングだったのだ。
私が子供を産まないと決めたのは25歳の時だった。ヘルプで行った支店の更衣室で着替えている時に、40代のパートさんが「私は一人っ子だから娘がいてよかった。娘がいなかったら、もう血の繋がった家族はいないし、天涯孤独になるとこだった」と雑談していたのだ。私は笑いながらも深刻な気持ちになっていた。そうか、私は子供がいなかったら天涯孤独というやつになるのか。パートさんには配偶者もいたが、それでも配偶者とは「何があるかわからない」という前提で話していたので、血の繋がった家族というものが重要なのだろう。それを踏まえれば、私は子供を産まないといけないわけだが、子供が欲しいかどうか全然わからない。それを取り憑かれたように数日間考え、必要だから、後悔するかもしれないから産まないといけない、という強迫観念のようなものは芽生えても、「子供が欲しい」という心からの思いは一瞬も湧かなかった。それに気づいた時、解放された。これは多分、欲しくないのだ。子供を欲しがらない女性というのも昨今は珍しくないが、当時はそうでもなかった。ワガママ、子供っぽい、成長がない、責任感がない、大人として未熟、未完成、そんな後ろ指をさされる言葉がたくさん浮かんだが、後ろ暗くもどこかホッとしていた。ヤクルトの事務所に並ぶ黒い大きな補助席のついた自転車を眺めながら、この自転車に乗る人生は訪れない、としみじみ思った。そうなるともう、“夫が転勤しても子供ができても働きやすい会社”にいる必要もない。かといって麻布のタワマンに住んでバリバリ働く人生も送らないだろう、じゃあどうなるんだろう、と毎日考え、ああ、アレか……と思い浮かぶ。下北沢とかで見かける、毎日フェスみたいな格好をした、三つ編みの、変わった中年女性。運が良ければ、アレになれるかも。失礼な偏見だがそんなことを思っていた。
子供はいらない、もう30手前だしきっと結婚もできない。あとはもう、どうにかこの仕事にしがみついて、細々暮らしていくことだけを考えよう。そして、ライフワークのように創作を続けられたら御の字だ。この頃、グループ展はほとんどやらなくなり、コミティアという自主制作の漫画を出すイベントに参加するようになっていた。もはや生存と創作活動の継続だけが目標だった。そんなふうに細々働いて3年近く経った頃、会社で事件が起こる。