2024.9.18
入社初日に「辞めたい」……『まじめな会社員』作者がとある銀行のOLだったころ 第17話 ふまじめな会社員
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新人の私がこんなに飲み会を警戒するのにはもう一つ理由があった。それは“組合”の存在である。組合とは労働組合のことで、本来なら労働者を守るためのごく普通の団体だが、この会社では研修の時から色々な噂が飛び交っていた。多かったのは、任意なのに強制的に加入させられる、加入しないと目をつけられる、飲み会を通じてしつこく勧誘される、という話だった。どこかの地区では、わざわざ制服を取りに来させる名目で支店に呼び出し、「うちの会社では、みんなと足並みを揃えたくない、なんて幼稚なことは言わせません」と上司に釘を刺され断る余地もなく加入させられたと聞いた。しかも毎月天引きされる組合費が給料の3%、およそ5000円と高額である。プログラマーをやっていた友人の会社は毎月1000円なのに…… 。5000円払うのだけは絶対に避けたい。そう思い、この謎の組織“組合”からは逃げ切ろうと心に決めた。そのため、入社初日から飲み会に誘われる隙を作らないよう心がけ、全ての飲み会を断る所存でいた。
それでもある日の終業後、指導係の山田さんに捕まってしまう。勧誘は業務中に行わないというルールがあるらしく、帰り際に「考えといて」と加入書を手渡されただけだったが、山田さんの笑顔が怖かった。几帳面で仕事熱心な山田さんは、組合の勧誘も熱心なのは想像に難くない。それに先輩たちはほぼ全員加入しており、「私の頃は任意加入なんて知らなくてホイホイ判子押しちゃった」と話していた。山田さんと揉めたくはないが、絶対に加入したくない。せっかく組合を避けるため、奨学金を返しているとか適当なことを言って苦労人を装い、現にお金はないので毎日お弁当を持参しているのに。
組合の勧誘に熱心な人は皆、「たかが5000円くらい」とか、「お金がないなら寮に入れば」などと気軽に言うことにも腹が立っていた。なんで自分の生活を苦しくしてまで、住む場所を変えてまで組合に入れというのか理解ができない。仕事を覚えるので精一杯なのに、組合の攻防戦にまで神経をすり減らすことにもいい加減疲れていた。私はもう放っておくことにした。が、当然ながら山田さんはそうしたいい加減な人間ではない。
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しばらくして、大きなミスをした数日後のこと、休憩室で山田さんに呼び止められ、先日のミスで助けてくれた先輩にお礼を言ったかと聞かれた。お礼を言うのは社会人の基礎だ、そういうところをきちんとしないとあなたが困る、「私、心配! 冬野さんのこと心配!」と強い口調で詰められた。先輩には謝罪をしたつもりでいたが、お礼ではないからダメなんだろうか、などと考えていると、一呼吸おいて「あれどうなった? 組合の加入」と切り込まれる。やっぱりきたー! どうなったもなにもロッカーに入れっぱなしだ。「あれから何も言ってこないよね? 私待ってたんだけど?」と続く。やはり、さっきのお礼をちゃんと言ったかとか、社会人として心配だとか、そういう話はこれの伏線だったのだ。もちろん、山田さんの言う通り書類を放っておいたことは不誠実ではあるが、他の説教に絡めて組合の話を持ち出す戦法にも憤りを感じる。極めつけは「みんなの組合費で恩恵を受けて悪いと思わないのか」と責められた。悪いも何も任意加入なんだから、そんなヤフコメみたいな正義の鉄槌を言われても……。でも、世の中にいる善意の人、きちんとした社会人ほどおそらくこの考え方が優勢だろう。まったくなんで組合は直属の上司からの勧誘を禁止しないのか、圧倒的なパワーバランスがあるのに。私もこれ以上取られてたまるか、という気持ちが湧き上がる。好きでもない労働で薄給だと、時間も喜びも剥奪されている感が満載なのだ。絶対にこれ以上奪わせない。私は極力すまなそうな口調で「一人暮らしですし、生活がまだ安定しないので、無理です」とだけ答えその後も組合には入らなかった。
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それがまだ6月くらいのことである。入社早々やっていける気がしない。相変わらず仕事はつまらないを通り越して苦痛だし、事務作業はまだしも接客と営業が向いていない。向いてないというか割に合わない。金融機関というのは、別に来たくて来るわけじゃないので大抵のお客はイライラしているし、誰でも利用する場所ゆえに変な人に遭遇する確率も高い。一度、男性客が身を乗り出して、無言でまじまじと胸元の社員証を見て帰ったこともあった。その異様な行動に、これは名前をネットに晒されるとか、最悪帰り道に刺されるんじゃないかと悪い未来がよぎる。接客、大嫌い。それがこの仕事の感想である。お客様の勘違いで「ねこばばしやがったな!」と怒鳴られたこともあったし、2時間居座って「本社から謝罪させろ!」とゴネる客もいたし、いちいち言葉尻を取って「よろしいですか?ってなんだよ、ダメですっつったら書かなくていいのかよ」という客もいる。バカバカしい。こんなのに付き合うの、バカバカしい。こちらのミスで怒られるのはまだいいのだ。道理が通っているし、本当に申し訳ないので謝罪も全て本心である。でも、日々こうした珍奇で横暴な言いがかりに丁寧に対応していると、1日の終わりに自分を浄化して、本を読んだり映画を見たり自分を楽しませることが虚しくなってくる。どうせ明日も破綻した暴言を詰め込まれるのだから、毒をもって毒を制す、口汚く愚痴る方が合っている。
そうして日増しに愚痴が増えた結果、「仕事の前日になると機嫌が悪くなるのとかが嫌だった」と言われ、2年付き合っていた彼氏にフラれた。彼氏の言い分はもっともだが、私は健気に耐えて負の感情を胸にしまってはいられない。これは持論だが、メンタルの危機が体調に現れる人は、呪詛を撒き散らす醜い怪物にならないタイプだと思う。最後まで人間であろうとした結果、自己イメージを保とうとした結果、心身を壊すのだ。対して、私は簡単に怪物に堕ちるので精神を病まなかったと思っている。どちらも不幸でしかないが。
そんな私も2年目には、パートさんや若手社員とそれなりに仲良くなっていた。フランクに「仕事やだなあ」などと言うようになり、先輩も「今日もさっさと帰ろ」とか言いながら、ハイペースで仕事を片付け、30分以上は残業しないことを心がけながらダッシュで退勤し、サクッと飲んで帰った。若手といっても20代は私しかおらず、大抵は既婚者で、社員もパートさんも家庭のある人が大半だ。だからこそ、みんな残業なんかやってられないし、ダラダラ遅くまで飲まない。相変わらず仕事は大嫌いだったが、ムードメーカータイプの先輩を筆頭に親しくしてくれたおかげで、仕事以外は楽しかった。
先輩には『こいつら100%伝説』(岡田あーみん)を貸してもらったり、パートさんからは「冬野さんこれ好きそう」と言われて『たのしい中央線』という雑誌を渡されたり、別のパートさんからは、おそらく80年代頃の野宮真貴が参加していたトリビュートアルバムを貸してもらった。あんなに大嫌いな仕事だったのに、最初の配属先のことを思い出すと好きな人ばかりだ。自分でも驚くが、意外にも後にも先にも、会社員生活でここ以上に面白い話ができる会社はなかった。
次回は10月16日(水)公開予定です。
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