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いつも鏡を見てる

「客がいないんだから、どうにもならない」タクシー運転手にとっての緊急事態宣言

TOKYO 2020 2020年8月1日

 JPN TAXI(ジャパンタクシー)は、トヨタ自動車が2017年に登場させたユニバーサルデザインの、車椅子のまま乗り込めるタクシー専用車で、東京では、オリンピック・パラリンピックに合わせ全タクシーの3分の1にあたる1万台にまで増やすのだという。北光自動車交通は9台を導入していて、そのうちの1台を担当する運転手が西山伸一である。彼が乗るJPN TAXIには、横の長さが30センチほどある楕円形のステッカーが貼ってある。〈ENGLISH CERTIFIED DRIVER〉と記されたそれは、東京に710人(2020年8月21日現在)しかいない外国人旅客接遇英語検定に合格したタクシー運転手の証である。東京オリンピック・パラリンピックの開催を控え、これまで以上の増加が見込まれる訪日外国人観光客へのサービス向上を目的に東京タクシーセンターが2017年2月から実施している認定制度。西山伸一は、北光自動車交通で、唯一、この検定に合格した証を、営業にでるたびに貼るのを認められている運転手なのだ。

「英語、流暢なんかじゃないですよ」

 44歳なら北光では〝若手〟に数えられる西山伸一は、歳よりもずっと若く見える童顔で、丸刈りの頭と丸顔が、彼の笑顔を印象的に温厚に映す。要は、かわいい顔なのだ。18歳の頃から格闘技にのめり込み、フルコンタクト空手を手始めにボクシングにも打ち込んでいたと聞いていたから、強面を予想したが、実物はまるで違っていた。その人懐こい笑顔で口にした「流暢なんかじゃないですよ」は、照れや謙遜が言わせているのではなさそうだった。外国人旅行者が、乗り合わせたタクシーの運転手に尋ねそうなことやその返答のモデルを反復して覚えているに過ぎないと彼は言うのである。

 緊急事態宣言が解除され、イオン板橋ショッピングセンターの入り口横、スターバックスは営業を再開していたが、しかし、店内のテーブル席は取り払われ、座るべき椅子は、窓に面したカウンター席が数人分あるだけだった。日勤を終えた西山は、制服姿からは想像もつかない半袖の開襟シャツと短パン姿で現れ、スタバの店前にソーシャルディスタンスとかいう距離を置いて並べた白いテーブルにつき、「休業明けからは、隔勤もナイトもなくなりました。夜は客なんていないから、しばらくは全員が日勤です」とコロナ禍に振りまわされるタクシー事情を話しだす。

 本当なら、いまの時期、ENGLISH CERTIFIED DRIVERのステッカーを貼った西山伸夫のJPN TAXIは、羽田空港の国際線ターミナルと都心を、もしかすると晴海の東京オリンピック選手村を、日に何度も何度もピストンしているはずだった。羽田空港の乗り場には客待ちのタクシーが殺到し、花番まで二時間待ちの覚悟が必要だが、国際線ターミナルのタクシー乗り場には、ステッカーを車体に貼った認定ドライバー専用のレーンが設けられている。近ごろは認定が増えて、待ち時間なし、とはいかないにしても、それでも、東京全体で710人なのだから、乗り場での受給バランスは悪くはあるまい。コロナ騒ぎがなければ、当初の予定では、東京オリンピックの開催は7月22日から8月9日、パラリンピックは8月25日から9月6日、その間の西山は、羽田空港の国際線ターミナルに入り浸りのはずだったのだ。

 外国人と会話するのが好きだからというわけではない。彼の妻が高校の英語教師だというのも理由ではない。外国人旅客接遇英語検定を受けたのは「効率よく仕事をしたい」からなのだと彼は言う。

「合理主義なんですよ」

 童顔の笑顔で、西山伸一は言い、笑顔に混じって表れる一瞬の目の輝きに、負けず嫌いを映していた。

「タクシーって、要は、センスじゃないですか」

 鰻重なら松竹梅の松、それよりさらに上、特上の松の運転手が言いそうな言葉を、西山伸一は、こともなげに口にした。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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