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超合理主義のタクシー運転手ですら苦戦したコロナの現実

タクシードライバーの職務経験を持つノンフィクション作家・矢貫隆さんが、ご自身ふくめて様々な背景を持つ多くのタクシードライバーたちの人生を徹底取材して描いた、ドラマティック・ノンフィクション『いつも鏡を見てる』
日経新聞などの書評欄でも紹介された、昭和・平成・令和を貫くタクシードライバーたちの物語を、期間限定で全文無料公開します!(不定期連載)

前回に続き、緊急事態宣言下の東京で苦戦するタクシードライバーの物語です。

いつも鏡を見てる 最終話

感染拡大 2020年2月3日~

 2月になっても、なんだか調子が上がらなかった。持って帰ってくる売上げが、まるで4万円に届かない。年末の大忙しと〝暇な1月、2月〟は昔からの通り相場で、2月も後半になると持ち直しの気配が見えてくるはずなのに、繁華街の様子が違っている。絶対に気のせいなんかじゃない、街行く人の姿が明らかに少ない。

 1出番で確実に4万円を持って帰ってくれば、何度かこける日があるのを想定しても、目標の1か月80万円の水揚げは確保できる。タクシー運転手としての西山伸一の才能の一端は、出番ごとの「4万円」を実際にやってみせるところにも表れている。先発投手が、肩を温存しながら155キロの速球を9回裏まで投げ続ける離れ業をやってのけるようなものだ。投げようと思えば160キロだって容易に投げられるけれど、投げない。155キロで完投する。去年の暮れ、トップが10万円を超え、出勤した運転手の平均が5万5000円を超えた時期でさえ、彼は160キロを投げず、4万3000円で帰庫していた。営業回数は9回、この数字は、2万円以上の水揚げを持って帰ってきた80人の運転手のなかでもっとも少なくて、その一方、1時間当たりの水揚げは、出勤した83人のなかでもっとも多い5821円だった。合理主義、効率よく仕事をしたい、時間単価を重視する、を口にする西山は、実際に、一貫してそのとおりの仕事をしていた。ところが、2月の半ばを過ぎたあたりから、センスも合理主義も、まるで通用しなくなった。なぜなのか、うすうすはその理由に気がついていた。乗客の感染が確認されたクルーズ船『ダイヤモンド・プリンセス号』が横浜に寄港した2月3日以降、メディアは連日の大報道で、それを目にしながら、西山ばかりでなく、タクシー運転手の多くが異変の理由に気づいていた。コロナのせいだろう、と。

〝2月後半の異変〟とコロナがはっきりと結びついたのは、日にちを特定するならば、2月17日だったと言っていいかもしれない。天皇誕生日の一般参賀を中止すると宮内庁が発表し、およそ3万8000人が参加予定だった東京マラソンの規模縮小が決まり、一般ランナーの参加不可が発表された日である。

 3月に入るや、半世紀近くも前のオイルショック当時を想わせるトイレットペーパー騒ぎが起こり、マスク騒動が始まり、2月後半まで2万3000円台で推移していた日経平均株価が急落を続けたあげく1万6000円台に落ちたのは、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が「感染拡大地域では自粛検討を」の提言をだした19日のことだった。プロ野球とJ リーグの開幕延期に続くようにして、センバツ高校野球の中止もすでに決定していた。小池百合子都知事の「ロックダウン」発言が飛びだし、水揚げが転がり落ちていく。東京オリンピック・パラリンピックの延期が発表されたのは、その翌日。志村けんさんが亡くなったのは、それから5日後だった。この段階で、確認された感染者数は全国で1128人、52人が亡くなっている。西山の出番は直後の31日、水揚げは1万1840円に落ちた。

 もうだめだと思った。本来なら、一晩に250キロ前後を走り、時間単価6000円前後の水揚げを確保している西山が、80キロしか走れず、時間単価は3600円。他の運転手たちの千円台、二千円台のそれに較べればましだが、この先、日を追うごとに稼ぎが減っていくのは想像がつく。感染は拡大するいっぽうで、安倍首相が緊急事態をいつ宣言するのか、メディアが注目していた。夜の銀座には目当ての客はいない。羽田空港の国際線ターミナルを覗いてみたところで訪日外国人がいるわけもなく、それでもENGLISH CERTIFIED DRIVERのステッカーをJPN TAXIに貼って走りだす。国内の感染者が5000人を超えたのは4月9日、死者が100人を超えたのは4月5日、人の姿が消えた夜の繁華街に向けて走りだした西山は、40キロ走っただけで尻尾を巻いた。得意のボクシングなら、さしずめ、試合が始まったとたん10秒でKOされたミドル級チャンピオン、西山伸一といったところだろうか。水揚げは、本調子の10分の1にもおよばない3620円だった。

 4月16日、安倍首相が「緊急事態」を宣言した。人々が、当たり前のように「自粛」を口にするようになっていく。

 政府の4月の月例経済報告が、「景気は、新型コロナウイルス感染症の影響により、急速に悪化しており、極めて厳しい状況にある」と判断を示したのは、俳優の岡江久美子さんが亡くなった日の翌日だった。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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