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「ね、運転手さん、ご飯たべに行かない?」深夜の歌舞伎町で乗ってきたホステスからの誘い

美人局かと一瞬考えるが……

「運転手さん、若いんじゃない?」

「若いよね、25くらいかな。もっと若い?」

 明治通を真っ直ぐ渋谷に向かい、ニーヨンロクの三軒茶屋のあたりまで行ったところで信号待ちをしているときに女が話しかけてきた。

「ね、運転手さん、お腹すいてない? ご飯たべに行かない?」

 思いもよらない突然の誘いだった。

 えッ、と戸惑い、咄嗟の答えに窮する磯辺健一だったが、女は、もう磯辺がウンと言うと決めてかかっているようで、行き先の候補のいくつかを口にしていた。

「イソベ・ケ・ン・イ・チ」

 身を乗りだすようにして助手席の向かいに写真入りでかざした運転者証を見て、女は、そこに書かれた磯辺の名をなぞるように読み、「健一」のところを「ケ・ン・イ・チ」と思わせぶりに声にした。

「そっか、運転手さん、名前、健ちゃんっていうのか。24だと、私の方が4つお姉さんだね」

 磯辺は考えもしなかった事の成り行きに面食らい、この女がどこまで本気で言ってるのか判断がつかず、そういえばタクシー運転手を狙った美人局みたいな話があったなと思った。そんな面倒は御免だけれど、その一方では、もし本気なら、こんなこと本当にあるんだな、と、先輩運転手たちが言っていた話はまるっきりの法螺ではなかったんだと驚いていた。タクシー経験が長い運転手たちの昔話が始まれば、決まって運転手とホステスがねんごろになったとかいう武勇伝で、やれ、あいつは赤坂のホステスと付き合っていただの新宿の女と同棲しただの、だ。運転手とホステスはどっちも夜の住人だからシンパシィを抱きあい、だからそんな関係になるのはちっとも珍しい話じゃないみたいに。10年、20年前じゃあるまいし、その手の話が山ほど転がっているはずがないと半信半疑なものだから、また先輩連中の武勇伝が始まったくらいに受け流していた磯辺だが、それがいま、自分の身に起きていることに驚いたのだった。

「じゃ、この近くのファミレスで」

 行き先を決めたのは磯辺だった。女の目的地である東京農大を通すぎ、三本杉陸橋の交差点を左折すれば環八沿いにデニーズがある。とりあえずファミレスなら無難だし、駐車場の心配をする必要もない。

「新宿の女だと思ってるでしょ。違うの、私、赤坂のバーで働いてるのよ。お客さんの付き合いで新宿で飲んだ帰り」

 さっきまでの客と運転手がファミレスで向かい合って座るというのは何とも照れくさいもので、女の顔をじっと見つめることができずに視線のやり場に困ったが、それも最初のうちだけで、磯辺がチェリーを、女がマイルドセブンを吸い終わる頃には、磯辺は笑顔の自分がそこにいることに気がついている。

 女は「エリカ」と名乗った。ひと昔前までなら珍しくもない〝タクシー運転手とホステス〟の話だが、磯辺健一とエリカはこうして出会ったのだった。

 磯辺はメニューを見ないままコーヒーに決めたが、エリカはチーズをつまみに安物のワインをデカンタで注文し、飲み始めるとすぐに「ねぇ、健ちゃん、これから私のうちにいこうよ」と言った。まるで屈託のない言い様につられて「うん」と返しそうになった磯辺だった。けれど、少し躊躇した表情を見てとったのか、彼女は「じゃあ、これでドライブしようよ」と言い直し、ハンドバッグからタクシーチケットの束を取りだした。磯辺が見慣れている四社のものだけでなく、東京無線やらチェッカーグループやら、トランプのカードでも並べるようにテーブルに広げた大量のタクシーチケットは5枚や10枚ではきかない。それこそトランプができそうだった。

「何でこんなに持ってるの」

「お店にくるお客さんがくれるのよ」

「健ちゃんのタクシー、これで乗れるんだよね」

 4~5枚の4社チケットを手にしてエリカはそう言い、タクシーチケットをくれるのはたいてい会社勤めのサラリーマンで、「これ、やるよ」とテーブルの上に置くときの表情は、若い男も中年の親爺も揃いも揃ってみな同じだと続ける。

「小遣いやるよ、みたいな顔するのよ。会社のチケットなのにね。『うれし~ッ』とか言うと思ってるのよ。だから『うれし~ッ』ってやるとニコニコしちゃって、ホステスに自分の会社のタクシーチケットをまいて喜んでいるんだから、よっぽど景気がいいんじゃないのかしらね」

「横浜、行こうか」

 エリカは言うと同時に席を立ち、ワインをずいぶん残して店をでた。

 磯辺が自動ドアのレバーに手を伸ばす前にエリカは助手席のドアを自分で開け、当たり前のようにそこに座るや、「じゃあ、運転手さん、横浜までお願いします」とあらたまった口調でタクシーの客ふうに行き先を告げた後、笑顔を見せた。

 用賀から東名に入り、横浜インターチェンジをでて山下公園に向かった。けれど、そこまで行ったところでクルマから降りるわけでもなく、世田谷から赤坂まで通うのは面倒だとか、ゆうべの客がどうしたとか他愛もない話をしているだけのドライブだった。第三京浜で世田谷まで戻り、エリカを東京農大近くのマンションまで送り届けたとき、時間はとっくに5時をまわっていた。

(以下、次回に続く)

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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