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「ね、運転手さん、ご飯たべに行かない?」深夜の歌舞伎町で乗ってきたホステスからの誘い

「釣りはいらないから」

 あれから2年と5か月。大きなニュースにもなった古都税騒動に特段の興味を惹かれることはなかった磯辺健一だが、それでもタクシー運転手としての自分のキャリアと時期がぴったり重なる出来事としてずっと気にはかけてきた。その古都税が廃止になり、清水寺、隨心院、泉涌寺せんにゅうじの三寺院が、参拝者の自主性に任せていた志納金ではなく、以前と同じ拝観料の徴収に戻したと四月一日の読売新聞が小さく伝えている。それは、これから何年か先、運転手になってどれくらいと指折り数えるときがあるとしても、同時に古都税を連想することはもうないという意味だった。あの頃から始まった円高はなおも継続していて、近ごろは1ドルが124円にまでなっている。ところが、ここのところ「円高による不況」をとんと耳にしない。そして、今朝の新聞は「地価高騰」を大きく報じていた。田中角栄の時代に記録した狂乱地価に次ぐ勢の急騰なのだという。

 何か関係あるのかもしれないと磯辺は思った。今夜の客にもひとりいたが、たいした距離も乗っていないのに、1万円札をだし「釣りはいらないから領収書だけくれ」と言った。最近、そういうことがよくある。

赤坂のバーに勤めるホステス

 エリカという名前はどういう字を書くのか聞きそびれたままにしているが、彼女は磯辺健一より4歳上だから28歳の、赤坂のバーに勤めるホステスである。

 週末はタクシーを捕まえるのに苦労すると彼女が話していたのを思いだし、磯辺は、店がはねる時間を見計らっていちどだけエリカを迎えに行ったことがある。店の名が『黒猫』なら入口のドアも真っ黒で、猫のシルエットに切り抜いた黒い木の看板までぶら下げる念の入れようだとは聞いていたが、小さいながらもわかりやすい外観のその店は、溜池の交差点の手前を斜めに入って、六本木通りとの中間あたりと教えられた場所にクルマを寄せ、路地を覗いたらそこにあった。

 日付のうえでは土曜日だが、金曜日の深夜2時の赤坂界隈は人通が途切れる気配はまるでない。外堀通りから一本だけ道を入ると、タクシー運転手には見慣れた光景であるはずなのに、営業の意識がないこの夜の磯辺の目には、こんな時間に、こんなに大勢の人が、と映った。迎車を見かけることはあっても、このあたりには、空車も実車も、そもそもタクシーが走っていない。空車を捕まえようと思ったら、とりあえず外堀通りか六本木通りにでるしかなさそうだが、そうしたところで週末の深夜だ、やすやすと見つかるわけがない。エリカが「乗るまでがひと苦労」とぼやくわけだ。

 フェンダーのあたりに寄りかかり、磯辺健一はポケットから取りだしたチェリーに火をつけた。その瞬間にタバコの先から、ふッ、と流れでる煙は透明に近い鮮やかな青なのに、ふかして吐いた煙が白く変わるのはなぜなんだろうという疑問が唐突に浮かび、口のなかで水分を含むからだろうかと考えているときに、すぐそばで「横浜に行ってもらいたいんだけど」の声がした。一見して会社勤めとわかる風体の中年男が、やはり会社員ふうの若い女の肩に手をまわしたままで磯辺の前に立っていた。

「いや、これ予約なんで」

「回送ってなってるじゃない。横浜まで2万だすからさ」

 回送標示をだしているのに、エリカが姿を見せるまで15分ほど待つ間に、大宮まで2万で行ってくれだの鎌倉まで乗せてくれないかだのと、道行く男女が入れ代わり立ち代わり景気のいい声をかけてくる。彼女に迎えに行ってやると電話したときからこうなるのはわかっていたつもりだけれど、それにしても、その数の多さと、どうせ会社の経費だろうに金に物を言わせようとする態度は想像していたよりもずっとすごかった。そのなかにひとり、いわゆる4社チケットをこれみよがしにぱたぱた振って「乗せてよ」と寄ってきた若い男がいた。大きな会社がタクシーチケットを乱発しているとしか思えないのだが、ここ一年くらい、この手合いが妙に増えた。仕事中の磯辺なら、ロングの客だな、とドアを開けるところだが、今夜のようにまるで違う状況で目にするチケット振り男は、何とも滑稽な姿に見えるものだとおかしかった。するとそのとたん不快感に襲われて、来なきゃよかったと後悔が込み上げてくるのだった。

「ごめん、待たせちゃったね」

 笑顔のエリカが磯辺健一の手を握った。

エリカとの出会い

 2か月前のことだ。

 抜弁天の信号の角から「近くまでだけど」と乗り込んだ夜の商売ふうの黒いスーツ姿の男は、このまま真っ直ぐ明治通りを突っ切って、次の信号を左に曲がったところで止めてくれと指定した。料金470円のところに千円札を2枚だし「近いのに悪かったね」と言って職安通りと区役所通りが交差するあたりの歌舞伎町の入口で彼が降り、うまい具合にそのすぐ前に立っていた若い女が、ちょうどよかった、みたいな顔をして開いたままのドアから顔を覗かせ「いいかしら」と笑顔を向けた。裾のあたりがキラキラするラメ入りのタイトなスカートをはいているからと言うわけではないけれど、どこから見ても水商売とわかる雰囲気を漂わす、顔の造りが少しばかりバタ臭い感じの美人だった。仕事を終えての帰りだろうから行き先はどうせ近所に決まってる。これが銀座や赤坂なら無視を決め込んで走り去り上客を物色するところだが、なにせ深夜三時過ぎの歌舞伎町だ。客を選んだところで大した変わりはないと経験的に知っている磯辺健一が、いつもどおりの素っ気ない調子で「どうぞ」と返して走りだす。

 近場と思ったその女は「世田谷の東京農大のあたりまで」と行き先を告げ、どんな顔をして言ったのか前を向いたままの磯辺にはわからないが、彼の胸の内を見透かしたように「微妙でしょう」と続けるのだった。

 深夜の時間帯、歌舞伎町から東京農大あたりまでだと確かに微妙だ。料金は、いってもせいぜい3000円くらい、そのくせ下っ走りだから時間はかかる。目的地で客を降ろし、飛んで帰ったところでこんな時間だ、銀座はもちろん、赤坂にだって上客はまず残っていない。いっそのこと行き先がワンメーター、470円の距離だったらもう一勝負かけられたかもしれないのにと磯辺は胸の内で舌打ちし、それにしてもこの女、時間帯と行き先から「微妙」と自分から言いだすくらいだ、仕事がら当たり前なのだろうけれど、タクシーに乗り慣れているなと思った。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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