2021.10.21
一流の競輪選手がタクシー運転手に転身したわけ
五大力さん見物
秀吉の醍醐の花見の醍醐寺は、住所こそ伏見区だけれど地図上では小野小町の隨心院の少し先でしかないから感覚としては山科みたいなもので(伏見区の住人がそう考えているかどうかは知らない)、だから山科の住人としては地元の寺も同然の醍醐寺でイベントがあれば足を運ぶのは当然、と、俺は勝手にそう思っている。その寺に千年以上も前から伝わる『五大力尊仁王会』。不動明王とか金剛夜叉明王とかの五大明王に国の安穏や人々の幸せを願う法要で、京都の人は、親しみを込め、たいがい「五大力さん」と言っている。この日に授与される御札を求めて京都はもとより全国から参拝者がやってくるとは聞いているが、実を言うと、詳しいことを俺は何も知らない。しょせん下世話なものだから、ただ五大力さんの『餅上げ力奉納』を見物してみたかっただけなのだ。男は150キロの、女は90キロの巨大な鏡餅を持ち上げ、その時間を競う名物行事。去年、その様子を報じたテレビのニュースを見て、来年は見物に、と決めていたのだ。
「わたしらも見たことないけど、餅上げ、すごい人気なんやてな」
みやびさんと五大力さん見物に行ってきたと話したら、さかえさんはいつもの笑顔でそう言ったが、林さんは俺の話なんかまるで聞いてないふうで、さっきからずっと、俺が山科駅で買ってきた25日の朝日新聞・夕刊に釘付けだ。この日の衆議院予算委員会で行われた物価集中審議の様子が載っていて、林さんは五大力さん話などお構いなしに「ほんまに、どないなっとるんやろ」と、ひとり言なのか、さかえさんや俺に相槌を求めているのかわからないけれど、そう言うのだった。社会党の楢崎弥之助が「つくられた石油危機、品不足、狂乱の物価高。どうしてこうなったか、犯人はだれか。国民は真実を知りたがっている」と委員会で発言したと記事は伝えていて、林さんは、それに対して「ほんまやな」と言ったのである。
事の成り行きは、大蔵省が一月に発表した貿易統計で原油の輸入量が明らかになったところから始まっている。
中東で勃発した戦闘から二週間ほど経ったある日、突如としてテレビや新聞が騒ぎだした石油危機。通産省や石油業界が「産油国による供給削減の影響は12月にもっとも強くでる」と断言していたのを俺は聞いたか読んだかした覚えがある。実際、石油関連の製品は、物不足とばかみたいな値上げが続き、俺にしたって下鳥羽の山川石油で長い列に並んだあげく「今日は売り切れました」を味わったりもしたけれど、その12月の原油輸入量は、石油危機前の9月と比べて2.1パーセントしか減っていなかったというのだ。一年前の同月との比較では0.9パーセントの増加だし、あれもこれもの値上げが始まった11月と比べると5パーセントほども多く入っていた。さらに、去年一年間のトータルでは、前年よりも16.2パーセントも輸入量は増えていたというのである。
だったら、どうして石油は不足してしまったのか、なんで俺らは20リットルしか給油してもらえなかったのか。10リットルしか入れてもらえない日だって何回もあった。あれは何だったんだと言いたくなる。
実は、去年12月の石油の販売総量は、一年前の同月よりも6.9パーセント少なかった。原油の輸入量は増えているのに、販売量が6.9パーセントも減っていたのである。どうやら、石油危機をいいことに、石油元売り会社が売り惜しみと備蓄をしていたということらしい。原油の精製量を制限し、値上げ協定を結んだのである。元売り会社のひとつ、ゼネラル石油にいたっては、自分らがつくりだした石油危機を「千載一遇のチャンス」だと言って系列店に値上げを奨励していたというのだから、そのことを報じるニュースに釘付けの林さんが五大力さん話をそっちのけなのも無理はない。
紙面の4分の1くらいのスペースを割いた長い記事を読み終えた林さんは、開いたままの新聞を横に置き、視線を上げて飲みかけのコーヒーに手を伸ばした。紙面の下段に『女性自身』のでかい広告が入っていて「加賀まりこが電撃挙式」の大きな文字が俺の目に映った。林さんが我に返ったような顔をして言ったのはそのときだ。
「そうか、みやびちゃんと五大力さん、行ってきたんか」
(「一章」終わり、次回から「二章」)
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