よみタイ

いつも鏡を見てる

一流の競輪選手がタクシー運転手に転身したわけ

夫婦で木屋町に繰りだす

 さかえさん、やっぱり派手な人だなぁ、と、このときあらためて思った。林さんの家におじゃまして家族に混じって夕食をごちそうになるのはしょっちゅうだが、自宅で見てもさかえさんはいかにも華やかな感じがする女性で、俺はひそかに、さかえさん、派手っぷりや雰囲気が『絹の靴下』とかいうのを歌っている新人歌手の夏木マリみたいだなと思っているのだ。

 三条通りの端と反対端で大声を張り上げて話すのもなんだから、俺が小走りで道を渡った。一か月前の深夜の三条通りは行き交うクルマの数も少なかったけれど、年があらたまってからというもの、石油危機が山場を越したそうで、まちがいなくそれが理由だと俺は思っているが、深夜の交通量は石油危機の前と同じに戻っているようだ。

「木屋町の帰りなんや。わしは飲んでへんけどな」

 木屋町のスナックで、という話をこれまでも何度か聞いたことがあるから、このふたりにしたら珍しいことではないのだろうけれど、夫婦で頻繁に夜の木屋町に繰りだすタクシー運転手なんて、少なくともうちの会社では林さんを除いてほかにはいないだろう。さかえさんは酒豪らしいが林さんはまったくの下戸で、それでも、そういう遊びの場が嫌いではないらしいのだ。

「気ぃつけてな」

 別れ際、林さんは仕事に戻る俺に言い、さかえさんは「明日、公休やろ、みやびちゃんとご飯食べにきたらええ」と言った。

インフレとオイルショック

 六大都市のタクシー運賃が一斉に値上げになり、京都の小型タクシーの初乗りが150円から200円になったのは、村井さんの日本列島改造論批判の日から二か月後、年があらたまった1974年(昭和49年)1月のことだ。村井説どおり、インフレのあおりを受け30~50パーセントの値上げの必要に迫られていたタクシー業界は、そこに降って湧いたオイルショックで値上げ幅を大幅に修正しなければらない状況になっていた。業界が求めた値上げは70パーセント。本当にそのとおりなら初乗りは250円とか260円にまで上がってしまうし、さすがにそれは運輸局が認めないだろうと思ったが、結果は、村井さんが予想していたのと同じくらいの数字、29パーセントに落ち着いた。

 初乗り運賃が200円になった、その初日、1974年1月29日の朝である。

「どや、新しい相勤は。仲良うやっとるか」

 もうすぐ7時になるというのに、とっくに家に帰って寝ているはずの村井さんがショートピースをふかしながら言った。俺が55号車に乗りかえたのは12月の初めだったが、あれ以来、村井さんと顔を合わせるのはこのときが3度目だか4度目だった。俺の乗務シフトが少しずれたものだから、彼とだけでなく、このごろは谷津さんや畑野といっしょになることもなかなかない。

「3時には洗車も終わっとったんやけどな、広い湯船に浸かりとなってな久しぶりに会社の風呂に入ったんや」

 こんな時間まで帰らずに居残っていた理由を聞く前に先まわりして村井さんは事情を話し、風呂上がりに一杯やって、夜勤を終えた連中と話し込んでいたらすっかり遅くなってしまったのだと付け加えた。

「雪やで、今日は。無理しなや」

 音羽山のてっぺんが黒い雲に覆われていて、そこで降る雪を西向きの風がうちの会社まで運んでいた。真上が青空でも明け方はいつもそんな調子なのに、ましてや今日は一面の曇り空ときているから、これはもう雪が降り続くと考えておかないといけない。真冬だろうと、スノータイヤはもちろん、タイヤチェーンの用意すらないうちの会社である。雪道の安全も自分の腕だけが頼りだから「無理しんときや」と村井さんの言葉につながるわけなのだ。それから、おっと大事なことを言い忘れたとばかり、こう続けた。

「料金換算表いうの、忘れたらあかんで」

 冗談めいた口調だったから、俺も笑って「わかってますがな」と返したが、これからしばらくは、客が乗るたびに換算表をお題に同じ会話をするのかと思うと、仕事にでる前からその状況に想像がついた。

料金換算表

 運賃値上げの日だと知らないはずはないのに、京都駅のタクシー乗り場には予想外の大行列ができている。どう見たって観光客とは違う、今日は雪がちらついて寒いからタクシーで会社に行きます、みたいな人たちの列。寒さのせいか、タクシーを待つ列の長さはいつもの倍くらいはありそうだ。京都新聞はこの日の夕刊で「タクシー暫定値上げ発車」の見出しをつけ朝の京都駅のタクシー乗り場の様子を伝えることになるのだけれど、そこに載った写真は、まさに俺の目に映った朝の光景だった。

 俺が乗せたのは、行き先を言う前に「タクシー、10分も待ちましたわ」とぼやいた黒いコート姿の中年の男で、「出町柳」と目的地を告げてから「今日からタクシー値上げやね」と予想どおりの話が始まっている。

「乗らんとこと思とったんやけど、電車降りたらこの雪や。まっすぐタクシー乗り場に足が向いとった」

「きのうまでやったらな、京都駅から出町柳の駅まで390円やったんやけど、今日からなんぼになるんやろ」

 男が尋ねたのは烏丸五条からすまごじょうの信号が赤に変わったときである。もっともな質問だとは思ったが、俺にしたってこれが値上げになって乗せる3人目の客なのだ。出町柳までの新料金なんてわかるわけがない。確かなのは、メーターに表示された金額が初乗りの150円のままなら料金は200円、ということだ。

「ちょっと待ってください。確認してみますから」

 そう言って換算表を手にすると、それを見た男の「ほんまに暫定なんやな」と呟くような口調が、何だかすごくリアリティを感じさせた。

 29パーセントの運賃値上げ。これは暫定料金とかいうやつで、年内にもういっぺん32パーセントの値上げが決まっている。間を置いて二段階での値上げなら利用者が受ける「大幅値上げ」の印象は少しは薄れるだろうし、これならタクシー業界も納得するだろうという判断が役所にあったのだと思う。とにかく、「またすぐ値上げ」がわかっているだけに、費用がかさむ料金メーターの交換は一回で済まそうと、よその都市の事情は知らないが、京都のタクシーは、初乗り150円のメーターのまま換算表を持っての仕事となったわけなのである。出町柳までの料金がきのうまでは390円だったから、ほら、お客さん、この換算表を見てください。メーター表示が390円なら、料金は500円と書いてあるでしょう、と換算表を見せることになる。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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