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運賃値上げは「日本列島改造論」から始まった?

【注釈】

*1 京都市は入洛観光客の数が4051万人に達した2000年(平成12年)に「観光客5000万人構想」を発表。目標達成を2010年に定めていたが、2年早い2008年に5012万人を達成した。翌2009年、世界的な景気の低迷もあって入洛観光客数は4690万人に落ち込んだが、その後は回復傾向を続け、2015年は5684万人に。以降は3年連続で減少。2018年は5275万人だった。

*2 一般的な会社の賃金と同じように家族手当やら住宅手当やらの固定給があり、そこに歩合給が付くA型賃金。完全歩合給と言っていいB型賃金。本文中にもあるように水揚げに応じたプール金があるAB型賃金。名目上の支払い方法は違っても、結局は、運転手の取り分に違いはない。

*3 ベトナム戦争で悪化したアメリカ経済。ニクソン大統領が、ドル防衛やインフレ抑制を目的とした新経済政策を打ちだしたのは1971年8月。ドル防衛の中心が、ドルと金との交換停止だった(=ニクソンショック/ドルショック)。同年の12月にはドルの切り下げが実施される。円は16.88パーセント切り上げられて1ドル=308円に。73年にドルは再び切り下げられ、それを機に、日本を含め先進諸国は変動相場制へ移行した。1965年11月から大阪万博が開催(3月14日~9月13日)された70年の7月までの4年9か月間続いた景気拡大期(=いざなぎ景気)。その間の実質成長率は11.5パーセント。消費者はカラーテレビ、クーラー、自動車の、いわゆる「3C」を求めた時代だった。その後、下降線を辿っていた景気は、大幅な金融緩和策が功を奏し、ニクソンショックを機に切り上げられた円が1ドル=308円になった1971年12月を谷に回復過程に入っていく。17パーセント近くも切り上げになった超円高。ふつうに考えれば輸出産業は壊滅的な打撃を受け、景気回復はとうてい見込めない(実際には輸出産業は貿易黒字を続けた)。そう判断した政府は内需拡大による景気刺激策をとる。そのあたりからインフレ傾向が現れる。第一次田中角栄内閣が成立したのはそうした時代のことだった。

*4 祇園祭は、7月1日の吉符入り(神事始め)に始まる一か月間におよぶ長丁場のイベントである。平安時代の869年、全国に疫病が蔓延し、それを鎮めるために66本の鉾(=当時の国の数)を立て、神輿を奉じて神泉苑に集まって御霊会(=祟りを防ぐための鎮魂の儀礼)を行ったのが始まり。鉾や山の原型の登場は999年。現在の、絢爛豪華な装飾をした鉾や山が現れるのは応仁の乱の後、桃山時代に入ってから。

*5 三条大橋の東詰の先、三条通りをはさんで三条京阪駅の向かい側に、すでに営業はしていなかったが加茂川館(本館)があった。加茂川新館は、現在は加茂川館に名を変え、外観もリニューアルし、私が働いた時代の加茂川新館とはずいぶん雰囲気が違って高級感がある。学生時代の笑福亭鶴瓶がアルバイトをしていたというのは、後に仲居さんから教えられた。私とは数日間だけ時期が重なっていたそうだが、私にはその記憶はない。

*6 天台宗の門跡寺院。秋は紅葉が見事だし、境内のしだれ桜は有名。吉良邸に討ち入った赤穂浪士の処遇に窮した徳川綱吉は、毘沙門堂の公辨法親王に意見を求めたといわれている。大石内蔵助が隠棲した山科では、毎年12月14日に山科義士まつりが開催される。討ち入り装束の義士隊の行列が毘沙門堂から大石神社まで練り歩く。

*7 首都圏と地方都市を交通網で結び、工業再配置によって過疎、過密化を解消しようという政策。総裁選の一か月前、通産大臣のときに発表。首相就任後、国土庁を新設して列島改造論を施策として進めた。日刊工業新聞社から刊行された『日本列島改造論』は91万部を売り上げるベストセラーに。

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新刊紹介

矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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