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運賃値上げは「日本列島改造論」から始まった?

天井知らずのインフレ

「日本列島改造論からや」と運賃値上げの背景を語りだした村井さん。運賃値上げになったらノーカットの金額はどのくらいになるのかと質問しただけなのに、その答が田中角栄批判につながっていくところが、いかにも村井さんらしい。

 この手の話を始めると村井節が止まらなくなるのは、相勤になって3か月しか経っていなくても、俺は、もう、よくわかっている。こうなると、洗車が終わったから納金してきます、などと言って話の腰を折るわけにはいかない。夕方の5時をまわって、薄暮というには暗くなり過ぎた西の空。反対側に目をやると、真っ黒な影絵となって浮かぶ音羽山が迫っていた。あのてっぺんあたりからいまにも雪が舞ってきそうな寒さに、まいったな、とは思ったが、村井さんの話はいつだって面白いし、と、長っ尻を決め込んだ俺は、谷津さんの真似をして買った煎餅の袋を手にクルマの前にしゃがみ込んだ。吐いた息が白かった。

「総理大臣になった頃、一年前やで、まだ。支持率、覚えてるか? 60パーセント超えとったんやで、田中角栄。戦後最高の支持率や言うとったの知ってるやろ。どうせ長続きせんとは思とったけどな」

 支持率の具体的な数字まで覚えている村井さんの記憶力には恐れ入る。

 とにかく田中角栄の人気は凄まじくて、捉えようによっては、田中角栄と日本列島改造論は「ブーム」でもあった。田中が自民党の総裁に決まった日、つまり、俺がゴッドファーザーを観た前の日、何新聞だったかの夕刊に「高小卒で天下を取る」みたいな見出し付きの記事が載った。「今太閤」とかの文字もよく目にしたものだ。一年が過ぎたいまになってみれば、日本列島改造論の内容云々よりも、読売新聞が「電算ブルドーザー」と書いたとおり、いかにも実行力がありそうなイメージと、「最終学歴は高等小学校」の男が総理大臣になった、その痛快さみたいなものが合わさってできあがった人気だったような気がしなくもない。村井さんが話した「戦後最高の支持率」とは、田中内閣が成立した二か月後に朝日新聞が実施した世論調査のことだ。田中角栄が日中国交回復を実現させた1972年9月の内閣支持率は、村井さんの記憶どおり62パーセント。吉田内閣を上まわる戦後最高の数字を記録していた。

「ランラン、カンカンが上野動物園にきたの、自分、覚えてるか? 日中国交回復からちょうど一か月後や」

 一年も前の出来事を、つい何日か前の話でもするような調子の村井さん。なんでそんなこと詳しく覚えてるんですか、と、尋ねても、聞こえなかったかのように問いには答えず、いつものことではあるけれど、彼は自分の言いたいことだけを喋り続けるわけだが、何を思ったか、話の途中で急に手のひらを上に右手を差しだし、「雪か」と、一転、静かに尋ねるような口調で言うのだった。空には星が見えている。そりゃ、そうだろう、クルマの前に長いことしゃがみ込んでいるのだもの、いくら熱く喋っていたって身体は冷えてくる。だから雪が降りだしたとでも思ったのだろうか。けれど、熱くなった村井さんの弁論は、その程度では冷めそうもない。なにしろ、ここで彼が本当に言いたいのは田中角栄の人気が落ちてきた話ではなくて、日本列島改造論がここのところのひどいインフレの元凶で、タクシー運賃の値上げ問題の根っこも、あるいは、うちの会社の運転手がしきりに気にしている「ノーカットの金額がいくらに上がるのか」という問題の根っこも、まさにそこにあるということだからだ。

 話が根っこに行き着くにはまだ先は長そうだし、と、煎餅に飽きた俺はダッシュボードに投げたハイライトを手にした。

 解散総選挙で自民党が議席を減らした理由をひとしきり語り、福田赳夫が入閣したところで上がり続ける土地の値段を止めることはできないし、そのあおりで物価は上がりっぱなしだと続けた村井さん。

 確かに、なのである。田中総理大臣の誕生から一年、60パーセントあった内閣支持率は27パーセントまで落ち、それに反比例するように物価状況は天井知らずと言っていいほどのインフレだった。

 中東での戦闘が勃発する二週間前、京都新聞の社説に「生活保護費のアップと物価」が掲載されたのを俺は覚えている。前日の閣議で生活保護費の5パーセントアップが決まったと伝え、その背景を書いた記事によると、上がりっぱなしの物価は7月の時点で全国平均11.9パーセントの急上昇だというから、生活保護費だって上げないわけにはいかないわけである。9月に入ったあたりからの新聞をざっと眺めただけでも「国鉄運賃」「関西電力」「大阪ガス」の名前がでてくる。揃いも揃って23パーセントほども料金を上げるというのだ。ガソリンの値上げが決まり、凍結のはずの灯油も、家電製品も冬物衣料も、国民生活とは直結していない特殊鋼に至るまでの大幅値上げ。値上げしない商品を探した方が話が早いと言っていい。こうした事態を指し、行政管理庁長官の福田赳夫が「現在の悪性経済の根源は土地価格の暴騰だ」と発言したとかで、京都新聞は、その言葉の裏側にあるのは「日本列島改造論の行きすぎへの批判だ」と書いていた。

値上げが決まったタクシー運賃

 村井さんが「日本列島改造論からや」と言ったとおり、その延長線上で検討され、30~50パーセントの幅で値上げが本決まりになってきたタクシー運賃。

「自分、タクの今の運賃が初乗り150円になったの、いつか知っとるか。2キロまで120円が150円になったの、田中角栄が総理大臣になる、つい5か月前やったんやで。意味、わかるやろ。あれからまだ2年も経ってへんのに、また運賃上げんといかん状況になりました、て。しかも暫定やて。1年もせんうちにもういっぺん上がるっちゅう意味やからな、客にしたらな、ええ加減にせぇよ、となるんとちゃうか」

 そこまで話してまたショートピースに火をつけた村井さんは、青白く漂う煙を目で追いながら、「わしらの給料かてな」と続けた。

「運賃が上がるやろ、来年の春闘、見とってみ、給料、上がらへんで」

「何でですか」

「会社の言い分はわかっとる。『運賃が上がったぶん、そんだけで黙っとっても水揚げが増える。そやし歩率を上げんでも給料は上がるやないか』ちゅう理屈や」

 値上げになったら客は乗り控えるから、実際には水揚げが運賃値上げ分ほど上がることはない。だから春闘で歩率が上がらなければ運転手の収入は減るかもしれない。少なくとも増えることはない。村井さんはそう言ったのだ。そして、「石油危機のせいにしとるけどな、タクの運賃は、石油危機のずっと前から値上げせなしゃあない状況になっとったんや。日本列島改造論からな」と吐き捨てるように言って立ち上がった。

(以下、次回に続く)

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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