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スズキナオ「この世の隅っこの「むう」な話」
ふとした会話が、表情が、何気ない何かがずっと頭に残って離れない……そこで湧き上がる気持ちをスズキナオさんはこう表現することにした。「むう」と。この世の片隅で生まれる、驚愕とも感動とも感銘ともまったく縁遠い「むう」な話たち。

さて、およそこの世に「ゴ」で始まる漆黒に塗れ輝くあの昆虫を好む人というのは存在するのだろうか……。

高級旅館の支配人と「ゴ」のつく漆黒の虫とブラトップの華麗なる戦い

GO TO を利用してちょっと高級な温泉宿へと繰り出した

これから書く話の中には「ゴ」から始まる名前のあの黒い虫が登場する。見るのはもちろん、名前や姿を想像するのすら嫌だという方はこのページを閉じてもらった方がいい。直接的な表現はできるだけ避けるつもりだが、念のため先にことわっておきたい。

私もあの虫のことは大嫌いだ。
古い居酒屋が好きでよく飲みに行くのだが、たまにあいつが現れると、それまでどんなに酩酊していようと一気に酔いがさめる。あいつらはあいつらで必死に生きているんだろうけど、どうしても無理である。容認できない。

家の中に現れようものなら心の中まで鳥肌が立ったようになり、仕留めずには絶対に眠れない。スプレーを噴射しながら、「死ねぇ!」と大きな声が出てしまう。自分の中にこんな凶暴な気持ちが存在したのかとそのたびに驚く。なんでこうもあいつには嫌悪感をかき立てられるのだろうか。

ところで先日、九州に旅行に行ってきたという友人から、泊まった宿にあの虫が現れたという話を聞いた。「GoToトラベルキャンペーン」を利用してどこかへ行こうという気運が世間的にも高まっていた頃のことだったという。

キャンペーンを利用すれば宿泊料金が大幅に割引されるとあって、いつもならちょっと手が出ない価格帯の旅館を予約することにした。その友人は女性なのだが、高校時代の同級生で今も付き合いのある女友達を誘い、気楽な二人旅をしようと考えた。

到着した旅館は優雅で落ち着いた雰囲気。「さすが高級な宿は違う」とひと目で感じるほどだったそうだ。和を基調としながら新しいセンスを柔軟に取り入れたような内装で、隅々までこだわりを感じる。フロントでは支配人をはじめスタッフがビシッとした格好で出迎えてくれて、気配りの行き届いた接客に、まるで自分が有名人にでもなったような気分。

温泉と美味しい料理で身も心も寛ぐはずが……
温泉と美味しい料理で身も心も寛ぐはずが……

部屋数は宿全体で5つと少なく、どこも空間が広くとってあってゆったりと過ごすことができる。館内に露天風呂が3つと内湯が2つもあり、それぞれ貸し切りで入れるようになっている。食事も絶品で、温泉の蒸気で蒸された旬の野菜など、その土地の食材の新鮮さを最大限に生かしたような料理が絶妙な味付けで提供される。美味しくていくらでも食べられるような料理でありながら、どれも脂っこくないからか、重たい満腹感もない。

温泉にゆっくりつかって美味しいご飯を食べ、もう一度温泉に入り直して「こりゃ極楽」と二人で喜びを噛みしめつつ部屋に戻った。浴衣姿で布団の上にごろんと横になり、事前に買っておいたお酒を飲みながら懐かしい話や近況報告をしているうちにあっという間に時間が流れた。

時計を見るともう24時を過ぎており、「そろそろ寝ようか」とどちらからともなく言って眠る準備をし始めたその時、壁に黒い影が横切るのが見えた。

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スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。
WEBサイト『デイリーポータルZ』『メシ通』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。
著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、パリッコとの共著に『酒の穴』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ"お酒』など。
Twitter●@chimidoro

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