いつも気難しそうな顔をしてて、メガネかけてヒゲなんか生やしてて、伊豆あたりの温泉旅館の一室で吸い殻山盛りの灰皿を脇目に、難しい小説なんか書いてる…。そんなイメージを持たれがちな彼らですが、実は現代人とたいして変わらないような、実に人間臭い面もたくさんあるのです。
2020.12.2
【文豪と猫】「ノラやお前はどこへ行ってしまったのか」〜いなくなった愛猫を思い、ひたすら嘆き、哀しみ、思い続けた内田百閒
「猫のいない生活は考えられない」といった池波正太郎や、机の引き出しに煮干しを常備し、書斎の襖に猫専用の出入り口を作った三島由紀夫、生涯にわたり猫を500匹以上の猫を飼ったといわれる大佛次郎、飼い猫と他所の猫とのけんかに加勢する幸田文などなど。
気まぐれで自由気ままな猫と一癖も二癖もある文豪の皆さん、はたしてそこにはどのような関わり合いがあったのでしょうか。
突然いなくなってしまった愛猫ノラの身を案じ続けた内田百閒
内田百閒
1889年5月29日 – 1971年4月20日
16歳の時に『吾輩は猫である』を読んで以来、夏目漱石の大ファンに。
高等学校卒業後、東京帝国大学へ進学し22歳の時に夏目漱石門下となる。同じく漱石門下の芥川龍之介らと交流を持った。美しく幻想的な小説や、ユーモアに富んだ随筆を多数執筆。愛猫を失った悲しみを綴った『ノラや』『クルやお前か』は猫にまつわる名随筆として名高い。代表作『冥途』『阿房列車』『百鬼園随筆』
百閒の家の庭にある日どこからともなく猫がやってきて……
内田百閒と言えば、夏目漱石のお弟子さんであり、芥川龍之介らと同時代の作家。『冥途』などの迫りくるような恐怖感を描いた作品や、「目の中に汽車を入れて走らせても痛くない」というほど鉄道を愛し、ただひたすら大好きな汽車に乗るだけの旅行記『阿房列車』シリーズなどで知られています。黒澤明が内田百閒と弟子たちとの交流を映画化した『まあだだよ』でご存知の方も多いかもしれません。
いつもへの字口で気難しそうな顔をしていて、如何にも偏屈な文豪といった顔をした百閒は、知らない人と会うのが面倒くさくて「禁客寺」と名付けた離れを庭に造ったり、家の玄関外の呼び鈴のついた柱に「世の中に人の来るこそうれしけれ、とはいふもののお前ではなし」と貼り紙をしたり、インタビューで「好きな食べ物は?」と聞かれて「レンコンの穴の部分」ととぼけたり、芸術院会員に推薦されそうになった時には「イヤダカラ」と断るといった具合で、見た目以上にその行動もまた偏屈でへそ曲がりなオジサンなのです。

そんな百閒先生の家の庭に、どこからともなくやってきた一匹の野良猫が住みつきました。その野良猫はだんだんとお腹が大きくなり、やがて子猫を産みます。しばらくは親子でいたのですが、いつの間にか親猫は子猫を置いていなくなってしまいます。
ある日のこと、百閒の家人が水を汲んでいる柄杓の柄にその子猫がじゃれつき、勢いあまって水瓶の中に落ちてしまいました。それを見て可哀そうに思った百閒は子猫に「お見舞に御飯でもやれ」とご飯をあたえます。もともと特に猫好きでもなく、むしろ小鳥をたくさん飼っていた百閒は猫を小鳥の天敵くらいにしか思っていなかったのですが、なんだか子猫が可愛く思えてきて「何となく猫に御飯をやるのが癖になって、お膳で食べ残した魚の頭や骨は、猫にやればいい」と毎日ご飯をあげるようになります。
そうしてあっという間に子猫を溺愛するようになった百閒は、野良猫だからと「ノラ」と名付けました。そうなるともう止まりません。百閒先生はノラを自分の子どものように可愛がるようになります。
物置小屋に置いたミカン箱の中に布を分厚く敷いて寝床を用意してやり、ノラが風邪をひいた時は瓶にお湯を入れた湯たんぽをミカン箱の中に入れてやりました。風呂桶の蓋の上で寝るようになったノラを、百閒はお風呂に入るたびにつまみ出しますが、ノラは何度つまみ出しても戻ってきます。百閒先生は「猫と混浴するのは困る」などと言いますが、その表情はきっとにこやかなものだったに違いません。
ところがある日、ノラが家に帰ってこなくなってしまいました。