2019.5.15
織田有楽斎―逃げ足自慢の茶道オタク
外交官・長益
本能寺の変の後、長益はしばらく堺の町に潜伏し、それから信長の次男・信雄のもとに身を寄せました。その間にも、光秀を討って織田家中の主導権を握った秀吉は、清須会議、賤ヶ岳の戦いを経て、着々と信長の後継者としての立場を確立していきます。
これに対し、信雄は徳川家康と手を組み、秀吉に宣戦布告しました。小牧・長久手の戦いの勃発です。世話になっている手前、長益も参戦せざるを得ません。
秀吉と家康・信雄連合軍の主力が睨み合いを続け、膠着状態が長引く天正十二年六月、長益は徳川家臣・榊原康政と共に、滝川一益の籠もる蟹江城攻めに参陣しました。
この後、信雄は家康を差し置いてさっさと秀吉と講和してしまうのですが、この和平交渉に長益が一役買っています。
戦は不得手な長益ですが、こうした交渉事にはそれなりの能力を発揮したようです。もちろん、「あの信長の弟」というネームバリューも手伝ってのことですが、長益は幸か不幸か、この後も何かと和平の斡旋という役割を背負わされることになります。
家康は信雄の戦線離脱により撤退し、小牧・長久手の戦いは終結しました。大役を果たした長益ですが、息つく間もなく今度は秀吉と越中で反秀吉闘争を続ける佐々成政、さらには家康との間の和平交渉に駆り出されてしまいます。秀吉は長益の持つ「信長の弟」という看板を最大限に利用したのです。
ここで想像をたくましくして、歴史のIfを考えてみたいと思います。もしも長益が二条御所で自害していれば、その後の歴史はどうなったか?
秀吉と信雄の和睦を取り持つ人物がおらず、小牧・長久手の戦いは史実と違った様相を呈していたでしょう。家康・信雄連合が瓦解しなければ、各地の反秀吉勢力も勢いづき、秀吉は窮地に陥ったかもしれません。さすがに信雄が秀吉に代わって天下を獲るということはなさそうですが、秀吉の天下統一が少なくとも数年は遅れ、茶道の歴史も大きく変わっていた可能性もあります。戦国史では刺身のツマみたいな扱いをされがちな長益ですが、歴史に何らの影響も与えなかったということはないのです。
さて、長益の奔走により和平は成り、天下は豊臣家によって統一されました。しかしその直後、主君の信雄が秀吉の怒りを買い、領地を没収されるという事件が起こり、長益も禄を失ってしまいます。
ですが、長益はすぐに豊臣家に鞍替えして秀吉の御伽衆となり、摂津国味舌二千石を与えられます。この味舌は茶の栽培に適した地で、長益はすでに茶人としてある程度認められていたようです。
この頃、長益は剃髪し、有楽斎と号しました。もっとも、当初は無楽斎と名乗りたかったようですが、「楽しみが無いとはいかがなものか、以後は有楽斎とせよ」と秀吉に勧められたので、断ることもできずその通りにしたそうです。せっかく考えた号をたった一言で正反対のものに変える破目になった彼の口惜しさは、いかばかりのものだったでしょう。
ともあれ、有楽斎は念願の茶人として、いわば第二の人生をスタートするのです。
実際、有楽斎の茶人としての活動が、この時期から活発になります。秀吉主催の北野大茶会、朝鮮出兵の際に名護屋の陣営で開かれた茶会などに頻繁に顔を出し、千利休や古田織部、細川幽斎といった一流茶人、文人たちと交流を深めていきました。あるいはこの豊臣時代が、彼の人生でもっとも華やかで充実した日々だったかもしれません。
なぜか関ヶ原へ
秀吉没後、家康は五大老筆頭として自家の勢力拡大に努めます。加賀の前田家を屈伏させ、石田三成を失脚させると、今度は会津の上杉景勝討伐の軍を起こします。
この時、会津へ向かう軍勢の中に、なぜか有楽斎がいました。有楽斎の禄高はわずか二千石、率いる兵もたったの四百五十人です。
彼の参陣が、家康の要請か、自分の意思によるものかはわかりません。前者であれば、上杉との和平交渉に有楽斎が使えると踏んだのでしょう。ですが後者だったとすると、少々不可解です。そもそも武人としての評価が皆無の彼に、合戦での活躍を期待する者は誰もいません。家康の天下を見越してすり寄ったのか、あるいは武人として名を上げる最後のチャンスと考えたのか。この時、有楽斎は五十四歳。茶人としては成功しつつあるものの、武士として生まれたからには、人生で一度くらい武功を立ててみたい。そんな思いもあったのかもしれません。
内心はともかく、有楽斎は関ヶ原本戦にも参加し、石田三成家中の猛将・蒲生頼郷を討ち取るという武功を立てました。
もっとも、その状況を詳しく見てみると印象は大きく変わります。
蒲生頼郷は名字が示すように、かつて会津を領した名将・蒲生氏郷の旧臣で、主家が転封となった後に牢人して三成に仕えていました。
頼郷は石田隊の敗走後に味方とはぐれ、たまたま行き合った旧知の有楽斎に声を掛けられます。
「そこを行くのは蒲生殿ではないか。徳川殿に貴殿の助命を掛け合うゆえ、我に降れ」
大勢は決したとはいえ、いまだ天下分け目の大戦の最中です。いきなり「助けてやるから降参しろ」と言われたところで、はいそうですかと応じては武士の面目が立ちません。激怒した頼郷は、「嘗めてんじゃねえよ」とばかりに刀を抜き、有楽斎に斬りかかります。
「助けてあげるって言ってるのに、何で!」
そう思いながらも、有楽斎は持ち前の危機察知能力を発揮し、頼郷の一撃をかわします。しかし勢い余って落馬。迫る頼郷。絶体絶命かと思われたその時、有楽斎の家来・千賀文蔵と文吉の兄弟が駆けつけました。有楽斎が馬から落ちたのを見た彼らは主君が討たれたと勘違いし、仇を討ちにきたのです。
さすがの猛将頼郷も早朝から続く戦いで疲れていたのか、二人を相手に力尽き、討ち取られてしまいました。また別の説によれば、主君が生きていると知った兄弟は、頼郷の首を有楽斎に獲らせ、手柄を献上したとも言われています。
どちらにしろ、武勇伝とは程遠い逸話です。上から目線で降伏を呼びかけ、激怒されて斬りつけられる。落馬しただけで家来に死んだと思われる。せっかく一念発起して戦場に出たにもかかわらず、こうしたエピソードばかりが残ってしまうあたりが、織田有楽斎という人物を物語っているように思えてなりません。
経緯はさておき、戦場で初の武功を立てた有楽斎に家康は喜び、三万石の加増という大盤振る舞いで報います。しかし、(討たれた頼郷には気の毒ですが)この程度の手柄で三万石の加増というのは異例です。
そこには、戦後を見据えた家康の深慮遠謀がありました。