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天野純希 「戦国サバイバー」

織田有楽斎―逃げ足自慢の茶道オタク

大坂の陣と有楽斎

 関ヶ原の戦いの後、有楽斎は大坂城下の天満に居を構え、豊臣家を切り盛りする淀殿の補佐を務めました。有楽斎にとって淀殿は姪に当たります。
 補佐といっても相談役のようなもので、政治の実務は片桐且元や大野治長といった豊臣家の家臣たちが執り行っています。有楽斎は政務に忙殺されることもなく、天満の屋敷に造った茶室で茶の湯三昧の日々を愉しんでいたようです。
 ただ、遊んでばかりいたわけでもなく、慶長十六年には家康と豊臣秀頼の会見を実現すべく奔走しています。上洛中の家康が、秀頼に対面を求める使者に、有楽斎を指名したのです。有楽斎はこれに応えて折衝に当たり、会見の実現にこぎつけました。京・大坂の民衆は「これで天下も泰平だ」と大いに喜んだといいます。
 余談ながら、家康はこの二条城会見で秀頼の成長ぶりに驚き、豊臣家を滅ぼすことを決意したと言われることが多いようです。しかし、それは俗説と言っていいでしょう。秀吉はかつての主家である織田家を滅ぼすことはせず、有楽斎ら織田一門をそれなりの待遇をもって迎えています。同様に、家康にとって主筋に当たる豊臣家を、悪名を着てまで滅ぼす必要はありません。現状を受け入れ、一大名家として生きることさえ決意すれば、豊臣家の存続は許されたはずです。そうなれば、有楽斎も楽隠居として穏やかな晩年を過ごせたことでしょう。
 しかし、徳川・豊臣の関係は方広寺鐘銘事件をきっかけに急速に悪化、大坂にはにわかに戦雲が立ち込めます。豊臣恩顧の加藤清正、浅野幸長、池田輝政らが相次いで没し、豊臣家中の主戦派を抑えられる者はいません。
 この時期、有楽斎は大坂で頻繁に茶会を開いています。客として招かれた主な人物は、筑前五十二万石の大大名・黒田長政、徳川家の政商・茶屋四郎次郎、片桐且元、大野治長ら、徳川・豊臣双方の大物たちです。さらには秀頼も二度にわたって屋敷に招かれ、手並みを披露されました。また、慶長十九年二月には江戸へ赴き、肥後の大名・細川忠興と共に将軍秀忠主催の茶会に参加しています。茶室という密室の中でどんな話題が出たのか確かめようもありませんが、徳川・豊臣間の融和に努めたと見るのが自然でしょう。
 ところが、努力の甲斐無く情勢は悪化の一途を辿り、慶長十九年十一月、ついに徳川方と大坂方との間で戦端が開かれます。
 和平工作が失敗に終わったからには、大坂城から退去してもよさそうなものです。豊臣家の相談役とはいえ、彼の扶持はあくまで徳川家から与えられたもの。ここで豊臣家を見限ったとしても、それほどの非難は起こらないでしょう。しかし有楽斎は、開戦後も城内にとどまりました。本能寺の変に際しては一人でさっさと逃げ出したあの有楽斎が、です。
 恐らく、彼にはまだ城内でやるべきことが残っていたのでしょう。考えられるのは、家康の要請による和平工作以外にありません。いざ開戦となった場合の交渉チャンネル。その役割を、有楽斎に求めたのです。
 今も昔も、戦争で最も難しいのは、落としどころを見つけることです。敵方を滅ぼす、あるいは明白な勝利を収めて屈伏させることができれば問題ありませんが、そうでない場合は敵方との交渉が必要になるのは言うまでもありません。
 双方の妥協点を見出し、戦争を終結させるには、敵味方双方に顔が利き、それなりのネームバリューと幅広い人脈を持ち、なおかつできるだけ中立的な立場の人物が必要とされます。それには、有楽斎がうってつけだったのです。軍事的な才覚や政治的野心を持たないことも、この場合はプラスになったことでしょう。
 有楽斎が大坂城にいたのはスパイの役割を担っていたからだという説もありますが、それは少々疑問です。大切なパイプ役にスパイ行為までさせて、発覚して殺されてしまっては元も子もありません。
 さて、戦国の掉尾を飾る大合戦が始まったものの、名高い真田丸に籠もった真田信繁の活躍もあり、戦況は次第に膠着します。
 こうした中、有楽斎は大坂方穏健派の大野治長と共に、講和に向けて動きはじめました。まずは家康の腹心・本多正純と書状をやり取りし、講和条件を詰めていきます。
 家康の意を受けているからといって、徳川方の条件を唯々諾々と受け入れるわけにはいきません。そんなことをすれば、大坂方の主戦派に斬られかねないからです。
 本多正純に宛てた十二月三日付の書状で有楽斎は、「講和は望むところだが、軽率な挙動は内応と誤解される恐れがある。城中の気風を次第に和平に導こう」と記しています。和平工作といっても、有楽斎にとってはまさに命懸けでした。
 徳川方の要求は、淀殿を人質として差し出すか、大坂城の堀を埋めるかのどちらかを選べというものです。有楽斎は、淀殿を人質に出す代わりに、大坂城に籠城する牢人たちのために加増を要求するという妥協案を提示しますが、家康はこれを却下。さらには威嚇のため、ヨーロッパから購入した大砲を城内に撃ち込みます。
 激しい砲撃音と屋根を突き破って降り注ぐ砲弾に、さすがの淀殿も慌てました。本丸への着弾で侍女八名が死亡するにいたり、ついに一刻も早い講和を決断します。
 互いに代表を出しての講和会議は、十二月十八日から行われました。
 徳川方は、淀殿を人質にするという案を取り下げ、大坂城の堀と二ノ丸、三の丸の破却、淀殿の代わりに有楽斎と大野治長からそれぞれ人質を出すという条件を提示。大坂方は、豊臣家の本領安堵と秀頼をはじめとする城中諸士の罪を不問とすることを求めます。翌十九日にはこれらの条件で合意し、講和が成立しました。有楽斎は、五男の尚長を人質として徳川家に差し出します。
 同月二十四日、有楽斎は大野治長と共に茶臼山の徳川方本陣を訪れ、家康と会見。その翌日に家康は陣を払い、大坂冬の陣は終結したのでした。
 しかし言うまでもなく、この講和は仮初めのものに過ぎませんでした。

 翌慶長二十年三月、いまだ大坂城内にとどまっていた牢人たちが、埋め立てられた堀を掘り返しているという報せが徳川方にもたらされました。大坂方の明白な条件違反です。さらには、牢人たちが京都に出向いて乱暴狼藉を働いているとか、大挙して京都に押し寄せ、町に放火しようとしているといった噂まで流れはじめました。
 これを受けた家康は、牢人衆の召し放ちか、豊臣家の国替えに応じるよう大坂方に迫ります。当然、大坂方がこれを受け入れるはずもなく、牢人たちは激昂、あろうことか、穏健派の代表格である大野治長を襲撃し、負傷させるという事件まで起こしてしまいました。
 もはや、ヒートアップした主戦派は有楽斎の言うことなど聞く耳を持ちません。家康もとうとう匙を投げ、大坂再征の号令を発します。
 四月二十六日、大坂方の大和郡山城攻めで火蓋が切られた大坂夏の陣は五月七日、淀殿、秀頼母子の自害という形で幕を下ろします。
 この戦いで、有楽斎はいかなる役目も果たしませんでした。開戦にいたる流れはもはや、彼一人がどう動こうとも押しとどめることはできなかったのです。いつの時点からか明確にすることはできませんが、家康はすでに豊臣家を滅ぼす腹を固めていたので、交渉役は必要ありません。
 当の有楽斎は、主戦派が掌握した大坂城内で居場所を失い、夏の陣開戦の直前に城から退去しています。命からがら逃げ延びたのか、それとも誰にも顧みられることなくひっそりと城を去ったのか、その時の状況も定かではありません。
 開戦後の四月二十九日に、ある僧侶が有楽斎のもとを訪問したという記録が残っています。それによると、有楽斎はこの時、京都二条のあたりに住んでいたようです。
 大坂落城、豊臣家滅亡の報せをどんな心境で受け取ったのか、それを記す史料は存在しません。

余生、そして大往生

 大坂夏の陣終結から三ヶ月後、有楽斎は所領を息子たちに分与し、京都で隠居します。隠居料として一万石をちゃっかり自分の手元に残すあたり、実に彼らしい。趣味の道は、とかくお金がかかるものです。ちなみに、有楽斎から一万石ずつを相続した四男・長政と五男・尚長の子孫は、外様の小大名として江戸時代を生き抜き、明治にいたるまで存続しました。
 最晩年の有楽斎の暮らしは、まさに茶の湯三昧でした。一方で、しばしば旅行に出かけ、江戸や駿府でも旧知の人々との茶会に参加しています。幕府の黒幕、黒衣の宰相などと仇名される金地院崇伝は、特に有楽斎との親交が深く、有楽斎から茶の湯の手ほどきを受けていました。
 有楽斎の創始した茶道『有楽流』は、商人であった利休とは異なり武家風ですが、その本質は、定法や格式に捉われることなく、客をもてなすことにあります。
 有楽斎を利休の高弟である『利休七哲』に数えられないこともあるのは、有楽斎が型に嵌められた作法を嫌い、より自由な茶の湯を求めたことも理由の一つでしょう。あるいは権力に利用され、翻弄された末に捨てられた利休を目の当たりにしたことで、自身の茶の湯と政治との間に一定の距離を保ちたかったのかもしれません。有楽斎にとっての茶の湯は、他の誰にも立ち入ることのできない聖域だったのです。
 現在、国宝に指定されている茶室『如庵』を造ったのも、この頃のことです。元々は京都建仁寺の一角に建てられたものですが、今は愛知県犬山市の有楽苑に置かれています。
 如庵の内部は、利休の茶室よりも広く、風通しを良くし、陽光を多く採り入れるための細工が為されています。他にも、武家風の好みを残しながらも前例に囚われない工夫が随所に見られます。この茶室からは、「茶室の中くらい、息苦しい思いはしたくない」という有楽斎の心の声が聞こえるような気がします。
 有楽斎は、長く時代の激流に翻弄されながらもきわどいところで生き残り、老境に入ってようやく悠々自適の隠居暮らしを手に入れたのです。
 そして元和七年、京都にて没。享年、七十五。死因は中風(脳卒中)で、当時としては長命と言えるでしょう。

 苛酷な乱世を生き延びるには、様々な要素が必要です。
 本人の力量はもちろん、血筋や家柄、人望、人脈、そして運。しかしその最たるものは、本人の「生き延びる意思」ではないでしょうか。
 戦下手、臆病者、裏切り者といった風評に負けず、「信長の弟」という、重すぎる肩書にも押し潰されず、生き残ることに全力を注いだ有楽斎のエネルギーの源は、茶の湯への情熱でした。
 方々で陰口を叩かれ、意に沿わない仕事を押しつけられ、心が折れそうになってもなお、屋敷の茶室で点てる一服の茶が明日の活力を与えてくれる。そしていつの日か、茶の湯に没頭できる余生を手に入れることを夢見て、有楽斎は戦国の世を必死に泳ぎ続けたのかもしれません。
「芸は身を助ける」とは言いますが、趣味への情熱が人を生かすこともあるのだと、彼の生き方を見ていると思えるような気がします。

 ところで、東京の有楽町は有楽斎の屋敷があったことから名付けられたと言われていますが、この話はどうやら眉唾もののようです。
 そもそも、有楽斎が江戸に屋敷を持っていたという確証はありません。では、なぜ有楽町と名付けられたのか。元々、この辺りは水辺で、「浦原」「浦ヶ原」などと呼ばれていたことから、「浦」に「有楽」の字があてられた、ということのようです。
 住んでもいない場所が、自分にゆかりの場所として語られる。そのあたりの間の抜け具合も、有楽斎という人によく似合う逸話ではないでしょうか。

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天野純希

あまの・すみき●1979年名古屋生まれ。2007年「桃山ビート・トライブ」で第20回小説すばる新人賞を受賞。2013年『破天の剣』で第19回中山義秀文学賞を受賞後、精力的に作品を発表し続ける注目の若手歴史小説家。著書に『青嵐の譜』『南海の翼 長宗我部元親正伝』『戊辰繚乱』『北天に楽土あり 最上義光伝』『蝮の孫』『燕雀の夢』『信長嫌い』『有楽斎の戦』などがある。

そにしけんじ

そにし・けんじ●1969年北海道札幌市生まれ。筑波大学芸術専門学群視覚伝達デザインコース卒業。大学在学中に『週刊少年サンデー』(小学館)の漫画賞受賞を経て、『週刊少年サンデー』掲載の「流れ力士ジャコの海」で漫画家デビュー。著作に『猫ピッチャー』、『ねこねこ日本史』『ラガーにゃん』『ねこ戦 三国志にゃんこ』『猫ラーメン』など。

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