2019.5.15
織田有楽斎―逃げ足自慢の茶道オタク
逃亡者
その日、京都二条御所は水色桔梗の旗を掲げる大軍に包囲され、炎に包まれていました。
包囲軍の将は惟任日向守こと明智光秀。すでに本能寺を攻め落とし、主君織田信長を自害に追い込んでいた彼は、二条御所に籠もる信長の嫡男・信忠の抹殺を目論んでいたのです。光秀率いる明智軍は一万三千。対する信忠軍はわずか五百。信忠配下の将兵は奮戦したものの、多勢に無勢とあって敗北は目の前に迫っています。
そんな中、燃え盛る御所からこっそりと脱出する一人の中年男がいました。
信長の弟、織田源五郎長益――後の有楽斎です。
茶道・有楽流を創始し、国宝に指定された茶室『如庵』を造った一流の茶人でありながら、武将としては無能・臆病の烙印を押され、「人でなし」とまで言われた有楽斎。
そんな彼が、いかにして激動の乱世を生き抜いたのか。その謎解きに、しばしお付き合いください。
パッとしない弟
織田長益は天文十六年、織田信秀の十男、あるいは十一男として生まれました。信長とは、十三歳の差です。
母は信秀の側室とされていますが、定かではありません。同年生まれの姉あるいは妹に、有名なお市の方がいます。
彼の前半生は、謎に包まれています。と言うよりも、史書に名が残るような事績が何も無かったと言った方が実態に近いのでしょう。母の素性はおろか、生まれ育った場所も、初陣がいつであったかさえ、史料から明らかにすることはできません。
彼の幼少期から少年期にかけて、織田家は内憂外患の真っ只中にありました。信長の家督継承に不満を持つ弟・信勝の反乱。隣国・今川家の侵攻。『信長公記』を著した太田牛一あたりからしてみれば、信長の動向を記すのに精いっぱいで、歳の離れた、しかも大して目立たない弟に割ける紙幅は無かったのでしょう。
ともあれ、信長は信勝を謀殺して織田家を掌握し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ります。かつて“うつけ”と呼ばれ、信勝を殺害し、“海道一の弓取り”と称された名将・義元の首を持ち帰った信長を、彼はどんな思いで見つめていたのか。若者らしい憧れか、それとも恐怖か。残念ながら、その心中を推し測る術はありません。
さて、元服をすませ、恐らく初陣も経験したであろう長益は天正二年、信長から尾張国知多郡に領地を賜り、大草城の城主となります。
この時、長益はすでに二十八歳。信長の弟としては、城主に取り立てられるのは遅いくらいです。しかも、与えられたのは最前線から遠く離れた尾張の地。信長としては、戦場で目立った働きの無い長益に、さしたる期待も寄せていなかったようです。実際、伊勢長島攻めや長篠の戦いといったこの時期の重要な合戦に、長益が参陣したという記録は残っていません。おそらくこの時点で、長益の武人としての低評価は定まっていたものと思われます。
長益がいつから茶の湯の道にのめり込んだのか、これも史料から明らかにすることはできません。長益の茶の湯の師を光秀とする説も存在しますが、こちらはあまり信用できない史料によるもののようです。
しかし、“茶の湯御政道”を掲げ、茶道と政治をリンクさせた信長の弟ともなれば、記録には残っていないにしても、当代一流の茶人である千利休、今井宗久、長谷川宗仁らの手並みを間近に見る機会もあったことでしょう。後の茶人・織田有楽斎の下地は、この時期に作られた可能性が大いにあります。
とはいえ、信長の弟である以上、長益は武将としての働きを求められる宿命にあります。天正九年二月の京都御馬揃え、翌十年一月の左義長には、長益も織田一門衆として参加。同年二月の武田攻めでは、信忠の軍に属し鳥居峠の戦いに参戦、降伏した深志城の受け取りを務めました。
重要な武田攻めを大過なく終えたことに、長益も安堵したことでしょう。宿敵・武田氏を滅ぼしたことで織田家の天下は定まり、自分の身の上も安泰。
「これからは茶の湯三昧の毎日だ!」などとほくそ笑んでいたかもしれません。
ところが、そうは問屋がおろさなかったのです。
「人でなし」
運命の天正十年六月二日、信忠に従って上洛し、京都妙覚寺に宿泊していた長益の安眠を、「明智謀叛」の報せが破ります。
あれよあれよという間に信長自害の続報が届き、長益は信忠と共に二条御所へと移りました。しかし敵は大軍、御所はたちまち囲まれ、味方は次々と討ち死に。御所には火までかけられてしまいます。
『当代記』、『武家事紀』などが記すところによれば、この時、長益は信忠に対して切腹を勧めたということになっています。
「脱出を図ったところで逃げられるはずがない。万一捕縛されて天下に恥を晒すより、叔父甥揃って潔く自害し、織田一門の意地を示そうではないか」とでも説いたのでしょう。だとすれば、長益にはちょっと似合わないくらい、武士らしい言葉です。信忠は「であるか」と頷き、見事腹を切って果てました。
信忠の最期を見届けた長益は、甥の遺体が敵の手に渡らないよう燃やし、それから自分も腹を切ろうと考えました。しかし、遺体を焼くための薪を集めていたところ、とうとう敵兵が雪崩れ込んできました。腹を切る暇も無いので、長益はいったん薪の中に身を隠します。
どれほど隠れていたのか、気づけば周囲から敵兵の姿が消えていました。長益は再び考えます。切腹とは、誰かが目撃し、世に語り継がれてはじめて意味を成す。ならば、誰も見ていないところで人知れず腹を切っても、それはただの犬死にではないのか?
長益は決断しました。逃げよう。ここは恥を忍んで生き延びようと。ここで織田一門が死に絶えては、光秀の思う壺。誰かが生き残れば、織田家再興の機会が巡ってくるかもしれない。
という理屈で彼が動いたかどうかはわかりません。信長・信忠は自害したものの、他に信雄・信孝や三法師丸といった信長の子や孫が健在です。残念ながら、長益が生きようが死のうが、大勢にはこれっぽっちも影響が無いのです。最初は切腹して果てるつもりだったのが、いざとなると怖くなったのか、あるいはそもそも死ぬ気など無かったのか。真相は恐らく、彼本人にもわからないでしょう。
ともあれ、長益は混乱の中、まんまと二条御所から抜け出します。驚くべきことに、武将としての才能に恵まれていたとは到底思えない長益が、明智軍が制圧しつつある京都の町からの脱出を果たしたのです。この逃げ足の速さ、悪運の強さは、彼が兄・信長から受け継いだ数少ない才能だったのかもしれません。
しかし命からがら生き延び、光秀の敗死に胸を撫で下ろした長益を待っていたのは、武将としての死でした。
織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ召させておいて 我は安土へ逃ぐるは源五 むつき二日に大水出でて 織田の原なる名を流す
本能寺の変の後、京都ではこんな戯れ歌が流行ったといいます。信忠に切腹を勧めておきながら自身は逃げ出した長益は、人でなしだというのです。それにしても、「人ではない」とはなかなかに手厳しい。
敢えて彼を弁護するとしたら、信忠に切腹を勧めたという確かな証拠はありません。『当代記』、『武家事紀』は共に、変から数十年後に書かれた史料であり、記述をそのまま信頼することはできないからです。加えて、二条御所の戦いを生き延びたのは何も、長益一人ではありませんでした。他にも少なくない織田家家臣が、二条御所から脱出しています。
とはいえ、織田一門でありながら、長益が御所から逃亡したのは紛れもない事実です。ただでさえ高くなかった評価と信用は、完全に地に堕ちました。
命こそ助かったものの、織田源五郎長益の武将生命は、この一件で完全に絶たれたのです。