2020.3.30
夫が消した社内定期預金の行方
母は離婚の後押しをしてくれなかった
チキ子は夫と一緒に暮らすことが、
どうしても耐えられなくなり、
子供三人を連れて、実家に帰ることにした。
離婚するかどうかはわからない。
ただ、実家に帰って両親にこれを打ち明ければ、
チキ子がいつも手本にしてきた母親なら、
「離婚しなさいよ」と背中を押してくれるのでは、
という期待はしていた。
「夫婦は信頼関係が大切よ」
「信頼関係がないなら離婚するしかないわ」
「いいのよ帰ってらっしゃい」
と母親に言ってもらいたかった。
しかし母親はそうは言わなかった。
「離婚したら、ここで暮らしたとしても、
アナタの稼ぎと養育費だけじゃ、
子供三人を育て上げるの大変よ」
と母親は言った。
「それに離婚しても子供とお父さんの縁は続くから、
けっきょく連絡も取り合わなくちゃいけないし、
面倒くさいのは離婚するほうかもしれない」
とまで言われた。
チキ子は「だって」という言葉を飲んだ。
チキ子は、長男と長女が年子で生まれて、
育児ノイローゼに近い状態だったとき、
夫に対して爆発しそうになって、
そのときも一瞬だけだが、
自分から離婚することが頭をよぎった。
しかしもしそのとき離婚していたら、
二人の子供を抱えて実家に身を寄せるしかなく、
離れて暮らす兄弟に気を遣いながら、
節約と子育てに追われるシングルマザーになっていただろう。
今は少しはチキ子自身も働き、
自立の芽は見えたけれど、
将来的にしんどくなるのは、
どっちの選択だろうかと考えた。
結婚の枠内での自立
チキ子は、離婚はしないことにした。
夫のもとに帰ってからチキ子は、
パートの仕事の勤務時間を増やした。
今後、正社員になれなければ、
より給料の良い仕事を探そうと思った。
夫の扶養の枠内でというようなことはもう考えないことにした。
家計については生活費は夫の給料から支出し、
そこから余剰が出れば、
それはコツコツとチキ子名義の口座で貯金した。
そしてチキ子は自分で新しく生命保険の契約をし、
その支払いや子供の学資保険の支払いを、
チキ子の給料からするようにした。
チキ子は結婚というユニットの中で、
夫とチキ子、そして子供たちが、
「どうすれば楽しい時間を過ごせるのか」
その時々の条件で考えることにした。
そう思わないと、頭の中で、
消えた一千万円のことだけが、
グルグルと回り始め、
夫を問い詰めたくなる。
仮に問い詰めて答えがわかったとしても、
そのお金は「もうない」のだ。
チキ子が「離婚しない」という選択をして、
夫はますますチキ子に気を遣うようになったし、
子供のことにも積極的に関わるようになった。
何かしらの反省なのか贖罪なのか。
久しぶりにまた再会した元同僚に、
「夫を許したのか?普通なら離婚するだろう」
と言われた。
チキ子自身、夫を許した気持ちは全くない。
一千万円ものお金を消してしまい、
その理由を決して話そうとしない夫と、
同じ屋根の下で一緒に暮らしている自分自身に、
「おかしいんじゃないか」とすら思う。
夫婦として気持ち悪い状況だと、
冷静に思うこともある。
でも、じゃあ離婚したら幸せになれるのか、
離婚したら解決するのかというと、そうでもない。
あらためてチキ子は、高給サラリーマンの妻でありながら、
コンビニのレジ打ちのパートをずっと続けた母を尊敬する。
母は、結婚してからも、
結婚がゴールではない、そこから続く自分の人生設計を、
ちゃんと考えていたのだ。
だから母はチキ子にも安易に離婚を勧めず、
今の枠内でどうすればいいのかを考えさせたのだろう。
母がチキ子と同じ立場なら、
離婚せずに結婚を続けながらの
人生設計の組み替えを選択するだろうと思った。
それがチキ子にとって結婚の枠内での自立だ。