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言語研究とクオリア研究の重要な共通点──早稲田大学准教授・佐治伸郎インタビュー

言語学史とこれからのクオリア研究

100年以上の歴史がある言語研究と比べると、クオリアの科学的な研究ははじまったばかりのようですが、比較してみると、やはり興味深い共通点と違いが見て取れます。

まず、クオリアを科学的研究の対象にするのは難しいと思われてきました。「赤の赤さの意味とは?」と考察しても、クオリアは主観的で外からは観察不可能ですから自己言及的になってしまい、研究のしようがないと考えられてきた。

実は、言語学でも似たような壁に直面しました。そこで セマンティクスは、意味を人間から切り離した構造とみなすことで、この問題を乗り越えようとしたわけです。

しかし、クオリア構造学では、クオリアを他のクオリアとの関係の網目に位置づけることで、クオリアの構造を記述しようとしているようです。少なくとも、色のクオリアについては土谷尚嗣さんなどがそういう研究をされています。これは、意識研究における大きなブレイクスルーかもしれません。

それだけではありません。ここ100年の言語研究は、「人間の言語能力は生得的なものだ(生得説)」「いや、経験から学習したものだ(経験論)」という二つの立場の間を揺れ動いてきました。前者の有名なものがノーム・チョムスキー(1928~)のとなえた生成文法です。チョムスキーの理論が登場したことで、それまで経験的なものだと思われてきた言語能力の、逆に生得的な面に研究者の関心が注がれるようになり、生得説が優位になりました。

ところが90年代になると経験論の逆襲がはじまり、生得的であると思われていたものが、実は赤ちゃんが学習した結果であることが明らかになったりと、今度は経験論が強くなり始めました。この生得説←→経験論の揺れ動きは、今もアップデートされながら続いています。

この枠組みをクオリア研究に当てはめてみると、今はおそらく、クオリアの生得的 で普遍的な面が注目されている段階ではないでしょうか。文化によって、リンゴが辛く感じられるとか、しょっぱく感じられるといった話は聞きませんよね。

しかしクオリア構造学の研究を見ていると、土谷さんも言うように、どうもクオリアにも小さくない個人差があるらしい。少なくとも、色のクオリアにはそれがある。ひょっとすると、これから、クオリアへの学習や文化の影響が次々と見つかり、経験論が強くなっていくかもしれません。

ちなみに、言語学での生得説←→経験論の揺れ動きは、新たな統計的な方法 を取り入れたとか、幼児の視線を計測できるようになったとかいった、方法論のアップデートがきっかけになっていることが多い気がします。クオリア研究でも、方法論の進歩が研究の枠組みを変えることがあるかもしれませんね。

クオリアに経験の影響はあるか?

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個人的には、クオリアに経験の影響があってもまったく不思議ではないと思っています。

セマンティクスでは、同じ言語の話者であれば意味は共有されていることが前提になっていたのですが、実際には言葉の意味にも個人差があることがわかっています。たとえば「カーキ色」と言われたとき、どんな色を思い浮かべますか? 日本では、下記画像のように、左の緑に近い色をカーキだと思う人もいれば、右のもっと茶色っぽい色がカーキだと感じる人もいます。

二種類のカーキ
二種類のカーキ

クオリアについても同じような個人差や、あるいは文化差があるかもしれません。ただ、その一方で、人類に普遍的なクオリアも多いはず。たとえば熱湯に手を突っ込んだら、幼児でも大人でも、あるいは日本でもイギリスでもエチオピアでも、誰もが鋭い痛みのクオリアを感じるのではないでしょうか。

おそらくですが、これもまた言語に似て、クオリアにも、個人差・文化差があるレベルから、人類に普遍的なレベルまで、階層がある気がしています。クオリア構造学では、そういった研究もはじまっているようです。

クオリア研究を言語学に持ち帰りたい

ここで僕は、言語学研究とクオリア研究を比べてみました。本来、異なる経緯で行われてきた研究である両者を比較するのは、いわば「言語学の網目」と「クオリア研究の網目」という異なる網目どうしの間を飛躍する行為です。

このような飛躍を、アブダクション(仮説的推論)による飛躍(リープ)なので「アブダクティブ・リープ」と呼ぶのですが、これは人間の言語能力の基盤にある能力です。

人間の幼児は回りの大人 が話すのを聞いて、「リ・ン・ゴ」という音と、果物のリンゴとの間に関係があると推論するわけですが、この推論は論理的に導かれるものではありません。仮説的な推論にすぎないのです。

もしかすると、僕がここでお話したことも、論理的には飛躍かも知れません。しかし、科学的理論が発展するためには、異なる網目を重ねることが重要だと思います。

僕は言語の研究者として、これまでの言語学が扱いかねてきた主観的経験を直接、研究しようとするクオリア研究が言語学に与える影響はとても大きいと考えています。クオリア構造学に参加することで、そのアプローチを言語学に持ち帰れたらいいですね。

 次回連載第7回は4/2(水)公開予定です。

佐治伸郎(さじ・のぶろう)プロフィール
早稲田大学人間科学学術院 准教授。2004年、慶應義塾大学環境情報学部卒業。2011年、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科単位取得退学。2011年、博士(学術)。日本学術振興会特別研究員、鎌倉女子大学児童学部子ども心理学科 准教授を経て、2022年より現職。著書に『信号、記号、そして言語へ』(共立出版)など。
研究概要:言語習得・記号コミュニケーションの発達プロセス。

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佐藤喬

作家・フリーの編集者。著書に『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。構成作は『動物たちは何をしゃべっているのか?』(山極壽一/鈴木俊貴、集英社)、『AIに意識は生まれるか』(金井良太、イースト・プレス)ほか。

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