よみタイ

せきしろ「東京落物百景」
落とし物の数だけ、物語がある――落とされたモノにも、そして落とした人にも。
『去年ルノアールで』『たとえる技術』などの著作で知られる作家せきしろが、東京の街の片隅で、本当に見つけたさまざまな落とし物について考える妄想ノンフィクション。

前回は棒がついたままのアイスの落とし物を発見し、世界の滅亡を考えた著者。

今回は、ぬいぐるみの落とし物を発見したようで――

悲しい! ぬいぐるみの落とし物は群を抜いて悲しい

都内で発見したうさぎのぬいぐるみの落とし物。(写真/ダーシマ)
都内で発見したうさぎのぬいぐるみの落とし物。(写真/ダーシマ)

ぬいぐるみの落とし物からは「捨てた」という可能性を感じない

道に落ちているものには少なからず悲哀がある。

もしも食べかけのものが落ちていたら「途中で落としてしまって残念な思いをしただろうな」と思ったり、結構貯まっているスタンプカードが落ちていたら「ここまで集めたのに無念だろうな」と思ったり、買い物メモが落ちていたら落とし主が無事買い物を終えることができたのかが気になって今頃途方に暮れているのではないかとその姿を想像したり、名刺が落ちていたら「これは落としたのではなく、もしや捨てたのでは」と考え「これが自分の名刺だったら……」と想像して悲しくなる。キャバクラの華やかな名刺だとしても人間模様が見え隠れして悲哀に満ちる。

中でもぬいぐるみが落ちている時の悲哀は群を抜く。

落ちているぬいぐるみは瞬時に落とし主の今を想像させる。今頃落としたことに気づいた子どもが泣いているのではないかだろうか、歩いた道を引き返して必死で探しているのではないがろうか、と。それだけで私は悲しくなり、この辺りに探しに来ているかもと周りを見渡す時もある。

もちろん落とし主は子どもとは限らない。学生や大人、お年寄りが悲しんでいるかもしれない。それぞれの思い出が詰まっているとか、何かの記念品なのかもしれないなどと考え、誰かの人生の一部だったことを再認識する。汚れていたり色褪せていたりほつれていたとしても、逆にそれが大切なものであることを強く感じさせる。他の落し物は「捨てた」という可能性が絶えず存在するが、ぬいぐるみからはそれを感じない。

また、ぬいぐるみの方も表情が変わらぬ分、どこか健気に見え悲しくなる。

ぬいぐるみはじっと落とし主を待っている。道だけではなく、子どもたちが家に帰った後の公園に落ちているぬいぐるみ、海水浴場に落ちているぬいぐるみ、サービスエリアの駐車場に落ちているぬいぐるみ、新幹線のホームに落ちているぬいぐるみ、どのぬいぐるみも待っている。私はそんなぬいぐるみを見て、勝手に持ち主の物理的な距離を考えて、再会することを切に願うのだ。

どうやらこのような想像をするのは私だけではないようで、ぬいぐるみの落し物というのは誰かの手によって移動されていることが多い。誰かの手によって落とし主が探しやすいように目立つ場所、あるいは踏まれたり蹴られたりしないような安全な場所に置かれる。

私は最近映画『トイ・ストーリー』シリーズを見た。そのため落ちているぬいぐるみを見ると「今、私が来たから普通のぬいぐるみのふりをしているが、私が立ち去ったらまた動き出すのだろう。そして持ち主への元へと急ぐのだろう」という新たな選択肢も生まれ、少しは悲哀が減った。

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Twitterアカウント
  • よみタイ公式Facebookアカウント

新刊紹介

よみタイ新着記事

新着をもっと見る

せきしろ

せきしろ●1970年北海道生まれ。主な著書に、映像化された『去年ルノアールで』や、映画化された『海辺の週刊大衆』、『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』(共に双葉社)など。また、又吉直樹氏との共著『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(幻冬舎)、西加奈子氏との共著『ダイオウイカは知らないでしょう』(マガジンハウス)も。
ツイッターhttps://twitter.com/sekishiro

週間ランキング 今読まれているホットな記事