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せきしろ「東京落物百景」
落とし物の数だけ、物語がある――。落とされたモノにも、そして落とした人にも。
『去年ルノアールで』『たとえる技術』などの著作で知られる作家せきしろが、東京の街の片隅で、本当に見つけたさまざまな落とし物について考える妄想ノンフィクション。
前回は、コンビニおにぎりの落とし物から、『おむすびころりん』の結末を思い出そうとした著者。今回は、鍋の季節にはまだ早いけど、水菜の落とし物を発見したようで――

水菜の落とし物で『ドラゴンクエスト』を想像してこそファミコン世代!

都内の路上にて発見した水菜。買い物帰りに落としたのは間違いないが……。(写真/ダーシマ)
都内の路上にて発見した水菜。買い物帰りに落としたのは間違いないが……。(写真/ダーシマ)

水菜を捨てたのは、持てるアイテムがいっぱいになったからに違いない。

1983年にファミリーコンピュータ、通称ファミコンが発売された。

私は中学一年生だった。私の家ではすぐには買ってもらえなくて、友達の家か親戚の家でやっていた。

中二の時にやっと我が家にもファミコンが来た。初めて買ったカセットは『デビルワールド』というゲームだった。周りの誰も持っていないゲームだった。いや、買ったと書いたが、もしかしたら親がパチンコの景品として持って帰って来たような気もする。その辺りはあやふやだ。だとすると、初めて買ったカセットは『スパルタンX』になる。

当時は暇があればファミコンをやっていた。当時の“あるある”であろう親に怒られたことも、取り上げられたこともある。今より時間があったんだろうなと考えていたのだが、よく考えると時間は今だってある。それより当時は集中力があったのだろう。今もたまにゲームをやるが集中力がないことを痛感する。

ファミコンの後はスーパーファミコンやPCエンジン、メガドライブなどがあって、さらに3DOとハードが出て来て、画面が綺麗で衝撃を受け、いつかお金持ちになったら買おうと思っていたが結局買ってない。すぐ後にプレステとセガサターンが出て、そっちは買った。

このようにファミコンで思春期を過ごし、その後もゲームとともに成長してきたために、思考にゲームが入り込んでくることが多々ある。何事もゲームっぽく考えてしまうのだ。それは落ちている水菜を見つけた時も例外ではない。

道に水菜。きっとそれは誰かが落としたのだろうが、ゲーム的な思考になってしまう私は「誰かが捨てたのかも」と考えてしまう。

それは完全にロールプレイングゲームの影響であり、何かアイテムを新たに手にして、その時持ち物がいっぱいだったならば、何か捨てなければいけない。たとえばドラクエであったら「やくそう」を捨てるように、この水菜の持ち主は捨てた。そんな風に考えてしまう。

水菜にはビタミンC、カリウム、葉酸などが含まれていて生でも食べられる。生でも食べられるということは、熱で流出しやすい栄養素もしっかりと摂取することができるということである。素晴らしい野菜すぎる。捨てようとした時にどこからか「それを捨てるなんてとんでもない!」と聞こえてきても仕方ないくらいだ。それでも水菜を捨てたということは、水菜よりも良いもの、あるいは水菜よりも持ち主に必要なものがあったということか。「やくそう」よりも「せかいじゅのは」、というように。

アイテムを捨てずに使って消費する時もあるように、水菜も食べてしまえば良かったのにと思う。先も述べたように水菜は生で食べられる。その場で食べることは可能で、そうすれば枠がひとつ空く。

また、水菜が後々必要になるかもしれない。ということは、捨てる前に一度セーブしておきたいなんてことも思う。

こうやって私は何歳になってもファミコンから、そしてゲームから逃げる事は出来ないだろう。

ただ年齢とともに味覚は変化していて、昔は見向きもしなかった水菜も、いまではいくらでも食べたくて仕方ない。

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せきしろ

せきしろ●1970年北海道生まれ。主な著書に、映像化された『去年ルノアールで』や、映画化された『海辺の週刊大衆』、『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』(共に双葉社)など。また、又吉直樹氏との共著『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(幻冬舎)、西加奈子氏との共著『ダイオウイカは知らないでしょう』(マガジンハウス)も。
ツイッターhttps://twitter.com/sekishiro

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