2024.5.18
東京の蕎麦屋であえて注文するのは「鍋焼きうどん」……その理由とは?
鍋焼きうどんとは、「ひと鍋の江戸前フルコース」である
東京の蕎麦屋さんの鍋焼きうどんはだいたい、その店の最高額メニューのひとつです。1000円台後半から2000円弱が相場といったところでしょうか。その分、内容はずいぶん豪華です。最も目立つ具材は大きな海老の天ぷらです。その他にかまぼこがなぜか2種類。「板わさ」として出てくるようないかにも高級な白いかまぼこが2枚とナルトが1枚というのが典型的なパターンです。筍と甘く煮た干し椎茸も定番で、野菜は他にほうれん草と、白ネギを長めの拍子に切ってさっと柔らかく煮たものも入っています。地味に嬉しいのがお麩。濃いダシをたっぷり含んだこれが最高なのです。そして絶対に欠かせないのが卵。ぐつぐつ煮える鍋の中で半熟に固まった卵を、いつどのタイミングで食べるか、心は千々に乱れます。
この内容は、東京の蕎麦に詳しい方ならお分かりでしょうが、要するに「おかめ蕎麦+天ぷら+卵」ということになります。蕎麦屋さんで定番の具材をとにかくありったけ総動員して、ワクワクするような豪華なひと鍋に仕立てたのが鍋焼きうどんなのです。もちろんそのひとつひとつは、今となっては特別ありがたみを感じさせるようなものではないかもしれません。でも老舗の蕎麦屋さんで食べるそれは、具材のひとつひとつが入念に吟味されたものです。派手さはないけど地に足のついたおいしさ。
僕はこれを「ひと鍋の江戸前フルコース」と位置付けています。お酒と共に、椎茸やかまぼこをひとつずつ大事に摘んで酒肴とします。時折うどんも少しずつ啜ります。その間も視線は常に卵を捉え続けます。そろそろか、いやもう少し温存するか……至福のひと時です。
卵を割って、それがつゆに混ざると、それはなぜか「すき焼き」を思わせるものになります。もちろん肉っけは皆無なのですが、天ぷらから染み出した油や、そして何といっても関東ならではの醤油もみりんもしっかり効いた甘辛いつゆがそれを感じさせるのでしょうか。基本的には関西系のつゆが好きな僕ですが、この時ばかりはこの関東ならではのつゆに感服します。
何が言いたいか。僕はこの東京ならではの鍋焼きうどんは、知られざる東京名物として、もっと注目を集めてもいいのではないかと思っているのです。たぶん日本のほとんどの人たちは、その存在をあまり意識していない。東京の人たちにとってそれは当たり前すぎる食べ物で、なんなら少々古臭いとさえ思っているかもしれない。まさに東京エスニック。
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さてこの「東京鍋焼きうどん」、基本的に「やわうどん」です。それがぐつぐつ煮込まれて、さらにもう少し柔らかくなっていきます。東京うどんの衰退を嘆いていた方は、その柔らかさも特徴のひとつとして挙げていましたから、おそらくこれが正統ということなのでしょう。確かに食感に微かな物足りなさはあるかもしれませんが、少なくとも酒肴としてはむしろ実に心地よい。特に卵を割って以降の爆発力は他のうどんの追随を許しません。お店によっては、ほんの三口分くらいの白ごはんが添えられることがあります。甘辛い汁を吸い込みとろりと半熟卵をまとったうどんと白ごはんの相性は、もう説明するまでもありませんね。
実はこれまで2回ほど、柔らかくないうどんに当たったことがあります。しかもそれは2回とも、おそらく冷凍讃岐うどんでした。現代の蕎麦屋さんではうどんがほとんど注文されない。蕎麦の片手間とはいえせっかく打ったうどんが無駄になるのは忍びない。ならばいっそロスを心配しなくてよい冷凍うどんにしよう。しかもそれは充分すぎるくらいおいしいわけだし、何より今の人たちの好みに合っているはずだ……。おそらくそういう経営判断なのでしょう。
実際のところ、コシのある麺の鍋焼きうどんは、それはそれでおいしいものでした。文句なんか言ったらバチが当たります。でもやっぱり僕は、どこか少し釈然としなかったのも正直なところです。
進化か伝統か。それは単純な二択ではありません。人々の嗜好は常に移り変わり、日々新たな流行も生み出されます。そんな中で失われていくもの、人気を得て広がっていくもの、我々は常にそんな食のダイナミズムの中にいます。うどんひとつとっても、我々はその一瞬一瞬を、決して徒や疎かにしてはならないのであります。
次回は6/1(土)公開予定です。
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