2023.6.22
神秘、自由、孤独や幻想…時代とともに移り変わる闇と夜の描かれ方 第9回 絵画の中の夜
お告げの天使はヴィットーレ・カルパッチョの〈聖ウルスラの夢〉(一四九五年)の夜にもそっと足を踏み入れている。この作品は、聖ウルスラ同信会主祭壇画のために、ヴェネツィア派の画家が手掛けた九枚の絵画から成る〈聖ウルスラ伝〉の一つである。初期キリスト教の聖人の生涯や逸話をまとめた『黄金伝説』によれば、聖ウルスラは四世紀もしくは五世紀のブルターニュ王の娘であった。敬虔な信仰者であった王女は、キリスト教の洗礼を受けることを条件に、イギリスの王子コノンとの結婚を承諾する。ウルスラは王子と一万一千人の処女をお供にローマへ巡礼の旅に出るが、ケルンで包囲網を築いたフン族によって婚約者や乙女たちと共に殺害されたという。この殉教聖女は後にケルンの守護聖人として信仰を集め、各地で聖ウルスラ教会が設立されることになる。ウルスラの生涯を描く際、カルパッチョは十五世紀末のヴェネツィアの街並みや服装、風俗を取り込んだ。そのために宗教画でありながら、当時の社会や人々の姿を鮮やかに伝える風俗画的な側面も見られるのだ。しかし、他八枚の絵画と違うのが、〈聖ウルスラの夢〉は『黄金伝説』で言及されておらず、おそらく画家自身が生み出した独自の場面だという点だろう。
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夜の帳の下りた王女の居室。薄く影に包まれた室内と調度品が詳細に描きこまれている。重厚な造りの寝台や枕元の紋章などの壁面装飾、壁に備え付けられた燭台と木の椅子、本が並ぶ書棚、装飾的な木枠のついた扉口とその上に置かれた彫像、そして砂時計やインク壺などが置かれた書き物机。華やぎよりも落ち着きのある室内で、聖ウルスラは頬に手を当て、深く寝入っている(1)。寝台の足元には外した冠が置かれ、白い小犬が横たわっている(2)。この休息のさなか、部屋の入り口に天使が現れる(3)。薄青の上衣をまとう天使は手に棕櫚の葉を持ち、じっと眠る王女の姿を見つめている。王女がやがて迎える運命、殉教が差し迫っていることを告げに来たのだ。
残酷な死という告知の場面ながらも、ウルスラの表情はあまりにも穏やかである。場面の時間帯が夜であることは、窓の向こうの暗い青から窺えるだろう。しかし、夜という割に室内は仄明るい。画面右側の丸窓とその下の緑枠の窓、天使の佇む戸口、そして画面左奥の開け放たれた扉。ここから差し込む光が壁を白く照らし、床に光の筋を投げかけているのだ。曙光、あるいは月光だろうか。その印象が一瞬過るものの、これは自然光だとは考えにくい。左右両側の扉から光が流れ込み、影を落とすのは不自然である。だからこそ、これは天使の訪れに伴う聖なる光だと判断できるのだ。天使は背後から光を受けつつも、足元に大きく影を落とさず、非現実性を高めている。昼と夜の同在した不思議な空間。ここはすでに聖ウルスラの夢の中なのかもしれない。丹念な室内の細部描写によって、場面の現実性を強めつつも、光の奇妙な効果によってそのまま部屋は夢の中に取り込まれてしまうのだ。
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