2023.1.26
姿の数だけ信仰のスタイルがある。第5回 聖母とマグダラのマリアの描かれ方
さまざまに描かれるマグダラのマリア
キリストの生涯に関わり、それを切り取った絵画場面に姿を現すもう一人のマリア。それがマグダラのマリアである。娼婦だった女性はキリストの磔刑での死に立ち会い、その三日後に復活を遂げた姿を最初に目にするという重要な役割を担う聖女であった。また、十五世紀ヴェネツィアの画家カルロ・クリヴェッリの〈マグダラのマリア〉(一四七六年頃)のように、聖書の物語的な場面から離れた単身像は、優雅で美しい女性の姿をとって表されることが多い。細部まで繊細さと優雅さに満ちたこの作品では、聖女は豪奢な装いをし、複雑な結い方をした金髪を長く垂らしている。右手が掲げる黄金の香油壺は、マグダラのマリアのアトリビュートである。頭部の後ろにある光輪が聖性を示すが、観る者に向けられた冷ややかな眼差しやその硬質な美しさ、優雅な手つきなどの特徴は、娼婦であったという前身を踏まえて描かれているのだ。
キリストの復活後も、この聖女の生と時間は続いた。それを表した作品として、十五世紀ドイツのルーカス・モーザーの手になる〈聖マグダラのマリア祭壇画〉(一四三二年)が挙げられる。この祭壇画は、ティーフェンブロンの聖マグダラのマリア教会に設置されており、木の縁にある記銘から、画家の名前と制作年代が明らかになった。
パネル上部には、「ベタニアのシモンの家での宴」が描かれており、そこでマグダラのマリアはキリストの足を香油で洗い、己の髪で拭っている(1)。それに対し、祭壇画下部のプレデッラが表すのは、十人の賢い乙女と愚かな乙女である。「マタイによる福音書」二十五章一―十三節によれば、十人の処女が燭台に火を灯して、花婿の訪れを待っていた。五人の賢い乙女は、火が消えないように油の壺を用意していたが、油の備えを持たない五人の愚かな乙女の灯りは、花婿の到着の際に消えてしまった。油を買いにその場を離れたために、この五人は花婿のいる家に入ることができなかったという話である。この花婿はキリストを指し、その到着に備えることは、来る最後の審判のために天国に入る準備をすることであった。このプレデッラの画面に向かって左側の五人が賢い乙女であり、燭台を手にしてキリストと相まみえている(2)。しかし、画面右側の五人の愚かな乙女の前には灰色の雲が立ちはだかり、恩恵から締め出されている(3)。この上下のパネルの絵画に共通するのは、キリストのための支度だろう。マグダラのマリアの香油は死の間際になされる終油の秘蹟の代わりであり、プレデッラではキリストの再臨への備えが描かれているのだ。
この上下のパネルを除いた両翼と中央パネルは、キリストの昇天後のマグダラのマリアの奇跡を表している。波模様が白く刻まれた海が広がる左翼の主題は、「マグダラのマリアの奇跡の航海」である(4)。船に共に乗るのは聖マルタ、ラザロと聖ケドニウス、聖マクシミヌスの兄弟である。船はマルセイユの岸辺に今にもたどり着こうとしていた。中央パネルは、「マグダラのマリアの奇跡の顕現」である(5)。画面全体を占める建築物の上部、窓から寝台とその前に現れたマグダラのマリアの姿が見えるだろう。寝台に横たわる異教の男性は、この顕現に気づかず眠り続けるが、白いスカーフで頭を覆った女性は身を起こし、両手を合わせて祈りを捧げている。船で航海を共にした他の聖人たちは、屋根の下で眠りに落ち、何も気づいている様子はなかった。そして、右翼には「終油の秘蹟を受けるマグダラのマリア」が描かれている(6)。マルセイユへの航海後、聖女は荒野に向かい、祈りと瞑想に明け暮れる生活を送るようになる。長い髪で身を包んだ聖女は、司教ラザロの前で敬虔に手を合わせ、最後の油を塗られ死に備える儀式を受けている。よく見れば、聖女の足は地についていない。彼女の髪に覆われた身体は、天使たちに支えられているのだ。この三枚のパネルの特徴として、それぞれ異なる時間軸の物語を表しながら、風景や建築物はひと続きとなっていることも挙げられる。画面内で左から右へと時間は進み、同時に岸辺から建築物の入り口、その奥へと空間もまた連続している。
中央パネルを開架すると、マグダラのマリアの木彫刻像を目にするだろう。長い髪が裸体を覆い、天使たちが周りを取り巻き支える姿は、右翼パネルの聖女と同じ主題に基づいている。これは「マグダラのマリアの被昇天」と呼ばれ、両手を合わせて祈る聖女を天使が天へと運ぶ姿が通常描かれる。〈聖マグダラのマリア祭壇画〉の彫像と同じ主題を扱ったものが、十五世紀ドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの〈天使に支えられる聖マグダレーナ〉(一四九〇―九二年)だ。荒野で隠遁する間、マグダラのマリアは時折天国に上り、天使の歌声を耳にしたという言い伝えがある。六人の天使は、天上の声に耳を澄ませる聖女を柔らかく受け止めて飛翔する。優美な翼や衣の襞は音楽的な曲線をまとい、軽やかに舞うような飛翔の動きを捉えているのだろう。その支える手つきに、聖女の肉体の重さは感じられない。マグダラのマリアは手を祈りの形に合わせ、わずかにしなる身体は細かい巻き毛に覆われている。獣毛とも見えるそれは腕や脚も包み込むが、乳房や膝、手足に首から上は滑らかな肌のままだ。そして、その顔は表情が洗い流されたかのように、静謐で柔らかな透明感さえ漂わせている。
この天使に抱えられ天上に向かう「被昇天」の主題は、聖母マリアでも馴染み深いものであった。その一例であるティツィアーノの〈聖母被昇天〉(一五一六―一八年)では、聖母マリアはたくさんの天使に囲まれ、黄金色に輝く天上世界へと向かってゆく。その頭上では父なる神が出迎え、大天使ミカエルが天上の女王の印である王冠を載せようとしていた。この二人のマリアの昇天のイメージは似通っているが、根本的に異なるものである。聖母は死を迎える際、魂だけではなく肉体もまた天に迎え入れられた。しかし、マグダラのマリアの昇天は、宗教的な法悦による一時的なもので、すぐに地上に引き戻されたのである。
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