よみタイ

酒井順子「言葉のあとさき」

「You」に胸キュン

 一方で、お洒落で都会的なシティポップ系の歌手達は、「おまえ」を使用しませんでした。山下達郎も佐野元春も稲垣潤一も杉山清貴も、歌の中で女性を呼ぶ二人称は「君」。シティポップではありませんが、時代の先端を突っ走っていたイエロー・マジック・オーケストラにしても「君に、胸キュン。」であり、「おまえに、胸キュン。」ではなかったのです。
 泥臭く男臭い歌手は「おまえ」ソングを歌い、無臭で都会的な男達が歌ったのは、「君」ソング。「君」ソングの中で男性は女性を優しく、丁寧に扱ったのであり、決して「おまえ」などとは言わないし、女も男を「あんた」とは言わない。そういった関係性を好む女性も当然ながら存在しましたし、私もそちら側にいました。
 女性達の好みの幅に合わせて、男性歌手による歌の二人称にも幅があったこの時代。しかし、男性に「おまえ」と言われるとキュンとなるという心理は、今を生きる若者にはわかりづらいところかと思います。男性からただ優しくされるよりも、少々の乱暴に扱われることによって、「私をそんな風に扱うということは、私には素の自分を見せているということ、つまり私に特別な感情を持っているということなのね」という感覚を得ることができる女性が、当時は存在したのです。
 その感覚の根っこはさらなる過去につながっていると、私は思っています。例えば一九七九年に出た沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」という曲は、男が女の頬をはりたおすという暴力行為が、冒頭から歌われています。このような曲がリリースされ、ヒットしたということは、女を乱暴に扱うことはさほどの罪ではないと思われていたことを示しましょう。「女を乱暴に扱う」という男性の性質が、当時の一部の女性にはセックスアピールとなっていたことも、理解できます。
 さらに時代を遡って一九五〇〜六〇年代頃のメディアを見ると、夫から妻への暴力、今で言うところのDVは、かなり当たり前に行われていたようです。夫が妻を殴ることは「しつけ」。妻をしつけるのは夫の役割であり、暴力もやむを得ないという感覚がありました。新聞の身の上相談に、夫の暴力に悩む妻が相談を寄せても、
「耐えましょう」
 という回答だったりするのです。
 そのような状況の中では、夫からの暴力は愛情の発露だ、という言説が登場し、妻もそれを信じるようになります。ほとんど共依存の関係になってくると、しまいには夫から殴られないことを不満に思うケースも出てきました。かつては殴られていたのにその暴力が止まると、
「あなた、どうしてもっとぶってくださらないの!」
 などと訴える妻もいたのです。
 夫からの暴力に愛情を感じる当時の妻の姿には驚きを感じますが、しかし「ひどい時代だったのだなぁ」「昔の人は遅れている」と、過去の人差別をするべきではありません。八〇年代を思い返せば、私は入学したての大学の先輩から、
「おまえ」
 と言われた時に、ドキリとしたのではなかったか。それは、「おまえ呼ばわりするとはけしからん」という感情ではありませんでした。シティポップ派(笑)の私であったはずなのに、「おまえ」と言われたことが少し、しかしはっきりと、嬉しかったのです。
 ヤワな環境で育った私は、それまで親兄弟からも「おまえ」と言われたことがありませんでした。シティポップ的(笑)な生ぬるい環境にいたのが、初めて「おまえ」と呼ばれて、「強い男から、女として見られた」ような気分に。
 私はこの時、「卑小なもの」として見られることに興奮したものと思われます。そしてこの時の私の感覚は、
「あなた、どうしてもっとぶってくださらないの!」
 と夫に訴えた妻達と、確実につながってはいまいか。「おまえ」ソングに発情した私世代は、夫から殴られる痛みを愛情と思わざるを得なかった女達の、いわば“チルドレン”なのです。
 今、男から乱暴に、そして粗雑に扱われると愛情を感じるという思い癖が日本女性から薄れたのは、喜ばしいことです。若者達が「カサブランカ・ダンディ」や「おまえ」ソングの数々を聴いたならば、「ひどい時代だったのだなぁ」「昔の人は遅れている」と思うことでしょう。
 しかし、
「デートで奢ってもらおうだなんて、考えたこともありません!」
と言う世代の女性もまた、「おまえ」に発情する世代の“チルドレン”なのでした。殴られることを愛情だと思ったり、「おまえ」と言われて発情したりした女性達の血を受け継いでいることは忘れずに、後戻りだけはしてほしくないものだと、「おまえ」世代としては思うところ。

1 2 3 4

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Twitterアカウント
  • よみタイ公式Facebookアカウント

関連記事

新刊紹介

よみタイ新着記事

新着をもっと見る

酒井順子

さかい・じゅんこ●1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。立教大学社会学部観光学科卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『下に見る人』『ユーミンの罪』『地震と独身』『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』『次の人、どうぞ!』『男尊女子』『家族終了』『ガラスの50代』『処女の道程』『鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む』など多数。

週間ランキング 今読まれているホットな記事