よみタイ

酒井順子「言葉のあとさき」

「黒人の人」と「白人」と

 ニュース番組においても、「男」とか「女」は加害者を示す言葉となりますが、「男性」「女性」は、被害者を示す言葉として使用されているところを見ると、「男」「女」よりも「男性」「女性」の方が丁寧な言葉である模様。「男性」の「性」も「黒人の人」の「の人」も、むき出しの言葉を口にする時のいたたまれなさをマイルドにするための敬称なのです。
 敬称は、日本語にとってラッピングのようなものなのでしょう。包装によって、中身を素晴らしく見せたい。中身に自信がなくとも、包装さえきちんとしておけば、気持ちは伝わる。……というのは日本人の思考癖ですが、言葉にもそれはあてはまるようです。
 人を呼ぶ時、よほど親しい相手の場合は呼び捨ても可能ですが、我々は「ちゃん」「さん」「様」「たん」など様々な敬称を使いこなすことによって、相手に対する敬意と親しみのバランスを調整しています。敬称なしで呼び合うようになるまでのハードルは、諸外国よりもかなり高いのではないでしょうか。
 そんな敬称問題において、私は人生で二度ほど、カルチャーショックを受けたことがあるのでした。最初は、大学を卒業して就職した時のこと。先輩や上司達が、取引先の会社のことを、「さん」づけで呼んでいることに驚いたのです。
 学生時代、企業名を「さん」付けで呼ぶという頭は全く持っていなかった私。就職活動の時は「御社」で通していたし、消費者として物を買う時に「資生堂さん(例)」「サントリーさん(例)」などと口にしたことはありませんでした。
 しかし社会人になってみたら、仕事相手の企業のことは「資生堂さん(例)」「サントリーさん(例)」と呼ぶことが常識である模様。学生文化しか知らなかった私に、企業名+さん、という言い方は奇妙に思われたものの、社会人文化に染まるにつれ、自分の口からも自然に出てくるようになったのです。
 とはいえすぐに会社を辞めた私からはその習慣も自然に消えていったのですが、そんな私にとって二度目のカルチャーショックは、三十歳前後にやってきました。その頃の私は、京都や大阪などへ行った時、
「同じ日本で日本語も通じるのに、東京とは全く文化が違う!」
 と感動し、その違いが面白くてせっせと関西に通っていました。
 そこで驚いたことの一つが、「関西って、お店の名前にも『さん』をつけるんだ」ということです。雑な家に生まれたせいかもしれませんが、東京者の私は、たとえば「酒井屋」という店に友人と行こうという時、
「酒井屋行かない?」
「いいね、酒井屋久しぶりだわー」
 などと話していました。しかし関西の人(何かと関西の人から粗雑さを揶揄やゆされがちな東京人であるため、ここでも「の人」を使用)の会話を聞いていると、
「酒井屋さん行かへん?」
「ええな、酒井屋さん久しぶりやわー」
 と、お店にも「さん」づけしているではありませんか。特に、年配の人の間では、その傾向が顕著だった。
 そのような言葉を聞いているうちに、店名を“さん無し”で言う自分が野卑なアズマエビスに思えてきた私は、関西の人の前では、店名に「さん」をつけて言うように努力してみたのです。ある時は京都のタクシーの運転手さんに、
「髙島屋さんまでお願いします」
 と頑張って言ったら、
「ハーァ、髙島屋に『さん』づけするって初めて聞いたワ。東京ではそないに言わはるんですか」
 と思いっきりイケズの洗礼を受け、「デパートに『さん』はつけないのね」と、涙ながらに学んだ次第。
 店名以外にも、「アメちゃん」やら「おくどさん」やら「お豆さん」といった物品、はたまた「おはようさん」などと挨拶にまで敬称つきで表現する関西の習慣は、おおいにアズマとは違うところです。なぜ関西では、このように敬称文化が発達しているのか。……と考えてみますと、やはりアズマよりも長く深い歴史を持っているから、という気がしてなりません。
 平安京ができる前から、日本の都は近畿圏に存在していました。都には偉い方々がおわしますが、とはいえ偉い人ばかりが住んでいるのではありません。偉い人の生活を支えるためには様々な職につく人も必要であり、そこに文化も格差も育っていきます。
 農村とは違って色々な立場の人がいるからこそ、ややこしい事情が絡み合う都会。そんな中で人間関係をスマートに運ぶためには、誰とでも距離を詰めて腹蔵なく話し合えばいいというものではなかったことでしょう。それよりも、他者との距離を常に適度に保つ工夫が必要だったのではないか。
 その時に敬称は便利な道具だったのではないかと、私は思います。人名であれ屋号であれ神様の名前であれ、呼び捨てにしていきなり相手の懐に飛び込むよりも、「さん」や「はん」や「様」をつけてクッションとしておけば、余計な摩擦を回避できたのではないでしょうか。

1 2 3 4

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Twitterアカウント
  • よみタイ公式Facebookアカウント

関連記事

よみタイ新着記事

新着をもっと見る

酒井順子

さかい・じゅんこ●1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。立教大学社会学部観光学科卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『下に見る人』『ユーミンの罪』『地震と独身』『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』『次の人、どうぞ!』『男尊女子』『家族終了』『ガラスの50代』など多数。

週間ランキング 今読まれているホットな記事