2020.1.9
「活動」の功と罪
しかし今は、地縁・血縁がすっかり薄くなりました。子や孫がいる人ばかりではなくなり、また子や孫がいても「迷惑はかけられない」というプレッシャーが大きい今は、死に際しても「あとはよしなに」では済まされないのです。
60代になったならば、家に溜まった物を捨てるなどして、終活開始。介護されるようになった時、介護者の手間が少なくて済むように下の毛を脱毛しておくという「介護脱毛」もまた、終活の一環となりつつあるという話で、私も今から友人達と、
「どうする? 今からしておいた方がいいみたいよ。白髪になっちゃうと、脱毛できなくなっちゃうから」
などと話し合っているのでした。
いざ病気になったなら、昔であれば本人には伏せられていたがん等の病名も、今はさらりと本人に告げられます。本人が意思を持たないと、治療が進まないのです。
さらに死が現実的になってきたら、自分の財産はどうするとか、葬式や墓の様式といったことについても意思を明らかにしておくことが求められるように。終活は今や高齢者の嗜みとなり、「何となく死ぬ」ことはできなくなりました。
婚活や終活と比べると「就職活動」は古い言葉ではありますが、しかしこの言葉がまだ存在しなかった時代は皆、特別な「活動」などせず、流れるままに生きる道を歩んだ人が多かったのではないでしょうか。農家にしても商家にしても、親と同じ仕事に子も従事するのが当然だったり、親の言うがままに奉公に出されたり嫁に出されたりするケースが多く、自分の就きたい仕事を得るための「活動」をする人は、少数派だった気がします。
このように昨今の日本人の人生において重要とされる「活動」は、就職、結婚、妊娠・出産に死‥‥と、どれも人生における重要なトピックに際して行われるものです。昔はその手の時期に、本人が自主的に道を選ぶケースは稀で、親や先祖などの他人や、天やら神やらから与えられる道を、人は唯々諾々と進んでいきました。そのことに不満を覚える人も多かったでしょうが、個人の意思を最小限に抑えることによって、世は無難に回っていたのだと思う。
対して今、個人に与えられる自由は拡大しています。どのように生きようが死のうが、その人次第。他者から生き方を指示されたり強制されたりすることがなくなり、全ての結果は自己責任、ということになってきました。
だからこそ人は今、「活動」に四苦八苦しているのでしょう。人生に失敗したならば、自分が「活動」に失敗したということになり、他人のせいにはできなくなったのです。
人が活動に疲弊するのも、そのせいです。活動はとても大変なのだけれど、乗り越えないと次のステージに進むことができないということで、人は必死にかじりつく。婚活疲れで一時は結婚を諦めかけた親戚のように、就活中の大学生は電車の中で虚ろな目つきでスマホを凝視していますし、かつて妊活をしていた知人も、
「もうつくづく疲れた」
と言っていましたっけ。そしてご近所の高齢のご婦人は、
「そろそろ終活、スタートした方がいいんじゃないの?」
と子供達から冗談っぽく言われ、
「何だか死ぬのを待たれているみたい」
と、寂しそうに微笑んでいらっしゃいましたっけ。「活動」は、何らかの目的達成のために行うものですが、その目的がなかなか叶わなかったり、活動が自主的なものでなかったりすると、人の心は折れそうになるのです。
「○○活」という言葉は、ちょっといきいきした響きもありますが、同時に人にプレッシャーを与えるものでもある模様。しかし「○○活」という言い方には、もう一つの種類があるようです。たとえば「朝活」やら「パパ活」といった、泡沫系の「○○活」という言葉を見ると、「活動」と言うより「活用」の意味で使用されていることが多いのでした。
朝活であれば、朝の時間を活用してもっと有意義に過ごしましょう、といった感じ。「パパ活」であれば、ときめきに飢えたおじさん達を金ヅルとして活用しよう、という若い女性の意欲が感じられます。
であるならば「○○活」は、もっと気軽に捉えてもいい言葉なのかもしれません。「活きる」とも使われる「活」の字。その人が持つ本来の機能を生かして存分に使うといった意味がそこにあるのだとしたら、「皆がしているから」という理由で無理に「活動」をせずとも、他に「活きる」道も、あるような気はするのでした。