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女性の孤独死は「かわいそう」なのか【第8回】独身男女の死の扱われ方

死について考える機会を逸している

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 ヘアカラーや化粧に美容整形等、老化を糊塗する様々な技術が発達し、人はすっかり若見えするようになりました。が、だからこそ今の人々は、死について考える機会を逸しているのかもしれません。自分にしても、鏡を見た時に映っているのは、希望的観測がおおいに混じっているとはいえ、「おばあさん」ではない気がする人物の姿。まだ死からは離れていられるような気持ちになるのです。
 しかしそんな感覚も、コロナの時は揺さぶられました。若くてもコロナで亡くなった人はいる。ましてや自分は六十代も間近な身、安心してはいられない、と。
 志村けんさんの死は、特に大きな衝撃を我々に与えました。私のような昭和世代は子供の頃、毎週「8時だョ!全員集合」を見てはゲラゲラ笑っていました。ドリフターズでは最若手だったスターが、七十歳の若さでこのような死を迎えようとは、と思うと同時に、志村けんさんが独身で亡くなったことについても、私は思うところがありました。
 人生で一度も結婚しなかった志村さんですが、女性関係の噂は多々ありました。芸能マスコミでは、「女性関係は激しかったが、最後まで華やかな独身貴族の生活を貫いた」といった、その人生を賞賛するような論調だったものです。
 そんなニュースを見て、独身で亡くなる人の扱われ方は、男女でかなり違いがあるものよ、と私は思いました。もしもコロナで亡くなったのが、生涯独身で男性の出入りが激しかった七十歳の女性だったら、マスコミはもっとその「孤独」を前面に押し出し、「かわいそうな人」として見たのではないか、と。
「孤独死」という言葉がありますが、かつてその言葉を印象的に聞いたのは、主に女性芸能人の訃報においてでした。二〇〇八年に亡くなった飯島愛さん、二〇〇九年に亡くなった大原麗子さん、そして二〇一二年に亡くなった山口美江さん。彼女達は皆独身で、自宅で死去している状態で発見され、いずれもマスコミは「孤独死」と書きたてました。
 一人で亡くなった女性芸能人について報道するマスコミは、やけにハイな状態になっていたものです。表向きは悼んでいるのですが、一世をふうした女性芸能人が誰にも看取られずに世を去ったことに対する、微量の喜びすら感じさせるほどに。
 女性芸能人が一人で亡くなったことに、マスコミがなぜそれほど発情したかといえば、人気者だった女性が一般的ではない亡くなり方をしたという、その落差が原因なのでしょう。
 山口美江さんであれば、美しいだけでなく高い学歴を持ち英語も堪能、キャスターも女優も経験した女性です。自分の意志を持ち、言いたいことを言ってきた彼女が一人で亡くなったという事実を前に、マスコミは若き日々の華やかさと対比して、最期の「孤独」を強調したのではないか。
 

そんなことでは畳の上で死ねない

 孤独死とは、一人暮らしの人が、誰にも看取られず一人で亡くなることを指すようですが、これは今となっては差別的ニュアンスを含む言葉となっています。結婚して子供を持ち、自分は家族の誰かに必ず看取ってもらえる、との自信を持つ人が、そうではない人に対して「おかわいそうに」と使用する言葉、というムードが漂うのです。
 それは、国民皆婚時代を生きた人の感覚なのでしょう。誰もが結婚して子供を持っていた時代は、子供に看取られない人は特殊なケース。「孤独死」という言葉も必要なかったほどの、レアな事象でした。 
 その時代の人は、まともな生き方をしていない人に対して、
「そんなことでは畳の上で死ねないぞ」
 という言い方もしていました。「畳の上で死ぬ」とは、家の中で子孫に囲まれ、安らかに眠りにつくということ。まっとうに生きればまっとうに死ぬことができるが、そうでない人は行き倒れて野垂れ死にするしかないのだからちゃんと生きるように、との意味が含まれています。
 今となっては、畳の上で死ぬ人はあまりいません。自宅で最期を迎える人がそもそも少ないですし、もし自宅だったとしても、畳に敷いた布団の上よりも、じゅうたんの上のベッドの方が多いのではないか。
 そのようなまつな問題はさておいても、今、「そんなことでは、まともな死に方をすることはできない」という台詞が脅し文句になるかどうかにも、疑問が残ります。誰もが結婚して子供を持つのが当たり前、という時代は過去のものとなりました。結婚も子供も、本人の意思次第。かつ、したいからといって簡単にはできない行為となって、子供の数は減り続けているのです。
 となると、「まっとうな死に方」のあり方も、揺らぐことになります。畳の上か絨毯の上かはともかくとして、子や孫に囲まれて最期を迎え、お葬式を出してもらってお墓に入る、といったかつての通常コースは、かなりクラシックかつ贅沢なものとなるのではないか。
 私の周囲でも、私を含めて〝看取り要員″不在の人だらけなのでした。生涯独身の人はもちろん、離婚して一人で暮らす人、結婚していても子はいない人もいる。
 そんな者同士で話していると、五十代のうちからそれぞれ、様々な対策をしているのでした。
「いつ突然死するかわからないから、一人暮らしの者同士のグループラインで、毎朝生存確認をしている」
 と言う人もいれば、
「ずっと都心に住んでいたけれど、近所付き合いもなくてこれからが不安なので、友達がたくさん住んでいる地域に引っ越す予定」
 と言う人も。皆、最期の着地点までの道のりを、自分でどうにかしようとしているのです。
 

家族に囲まれていようと、一人でいようと

 これは、女性だからこその行動なのかもしれません。女同士が助け合おうとする力は、しばしば男同士のそれよりも強い。またこれまで女性芸能人がさんざ「孤独死」とマスコミに騒がれてきたのを見れば、自分達は早くから対策を考えておかねば、と思うものです。
 一人で亡くなって、発見されずに長い日数が経つケースは、五・六十代の男性が多いという話があります。まだ高齢者というわけではないので周囲もあまり気遣わず、かつ女性達のように、同類同士で助け合うこともせず、料理ができないので栄養にもあまり気を配らない。志村けんさんのようにお手伝いさんを雇えるような人であればともかく、そうではない独居男性は、一人で亡くなる危険が意外に近くにあるようです。
 全世帯における一人暮らし世帯の割合は、二〇二〇年時点で四割近く。二〇五〇年には四十四%超になるとも予測されています(国立社会保障・人口問題研究所)。結婚して子供がいても、伴侶に先立たれれば、老年で一人暮らしをすることになります。その間に一人で亡くなる可能性もおおいにあるということで、これからは誰が一人で死んでもおかしくない時代がやってくるのでしょう。
 行政では、「孤独死」よりも「孤立死」という言葉を使用することが多いようです。孤独であろうと孤立であろうと、その否定的ニュアンスはさほど変わらないとも思うのですが、自治体では「孤立死ゼロ」を目指したプロジェクトも行われている模様。
 そんな時代に私は、一人で死ぬことに対して大仰に同情することだけは、しないでおきたいと思うのでした。この世を去る時はきっと、「今、自分はたった一人でいる」という人生最大の孤独感に見舞われるのでしょうが、それは家族に囲まれていようと、一人でいようと、きっと同じもの。そう考えると、人生の締めくくりという大事業を一人で乗り切った人に対する深い敬意は感じるけれど、その時に一人であったことに対して「おかわいそうに」と思うのは、あまりに不遜な気がするのです。
 中山美穂さんは、二〇二四年、自宅で一人で亡くなりました。歌手としても女優としても一世を風靡した彼女が、若くして一人で亡くなったことにショックを受けたものですが、この時はコンプライアンス意識のせいなのか、「孤独死」と言い立てる動きは目立たなかったように思います。
 死に方や見送られ方、葬られ方による死者差別は、今後も薄くなっていくことでしょう。
 一人で生きていく人が増えるからこそ、一人で死ぬ人の尊厳も、守られる時代になっていくのだと私は思います。

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*次回は1月26日(月)公開予定です。

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新刊紹介

酒井順子

さかい・じゅんこ
1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。大学卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』『男尊女子』『家族終了』『ガラスの50代』『女人京都』『日本エッセイ小史』『老いを読む 老いを書く』『松本清張の女たち』の他、『枕草子』(全訳)など多数。

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