2018.10.26
帯留め(五)
店は、その年の暮れに畳まれた。
鮎の帯留は、手元にある。
店主ははっきり勝珉と言ったが、私に真贋はわからない。
調べたところ、現存している海野勝珉の作品は大物ばかりだ。しかも、その作品のほとんどは、実用から離れた芸術品だ。
廃刀令が出る前は、刀装具を扱う職人だったという話だが、そんな彼が女性のための装飾品など作るだろうか。
彫られている銘が本物かどうかも、生憎、確認できない。
(鑑定に出すのも、馬鹿らしいしな)
まあ、見飽きないほどの魅力を持つのは確かなのだから、真贋はどうでもいいだろう。
私はこの鮎が大好きだ。
ただ、いまだに首を傾げるのは、あのとき憑いた男の正体だ。
勝珉ではないと思う。
あの男は私同様、作品に惚れ込んでいた。
店主の父でもないだろう。男は目の前の老人を一顧だにしなかったから。
結局、これもわからない。
しかし、あの男のひと言で、鮎が手元に来たのだから、ここは素直に感謝しよう。
いやいや、感謝していいのかどうか……。
これがきっかけで、私は着物の深い沼に嵌まってしまった。
常々、私は品物に用途があるならば、目的に沿って使ってあげるべきだと考え、実践している。
初めから観賞用ならともかくも、鏡なら、たとえ銅鏡でも鏡として使う。アンティークランプなら灯をともす。
そうやって物とつきあってきた私にとって、帯留は帯留として用いるしかない。リスペクトしているからこそ、鮎は帯の上で泳がせるべきと考えるのだ。
だから、
(着るしかない)
私は決意した。
(鮎に相応しい着物を探し、相応しく着物を着こなさなければ)
以来、私はいつも心の隅に帯留を置き、隙あらば、着物にお金をつぎ込んでいる。
その時間と金の大きいことは、あのとき、私に憑いた男に土下座をして欲しいくらいだ。
しかし、鮎の帯留はまだつけられない。
この決意が本物ならば、出合うであろう着物も出てこない。
もしかすると、この顛末は何十年と溜め込んだ着物に対する執着が、帯留をきっかけに噴き出してきただけかもしれない。
ならば、あの男こそ、私の執着に取り憑かれ、引き込まれた犠牲者なのではないか……。
自省するのには、理由がある。
夢中になればなるほどに、私の着物周りには、様々な怪しい気配が立ちのぼってきたからだ。