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加門七海「着物憑き」
あの世とこの世のあわい。
幼いころからそれを感じ取る加門氏は、
ここ数年で、着物を身にまとう機会が増えた。
それは「夢中」を通り越し、まるでなにかに
「取り憑かれた」かのように……。
着物をめぐる、怪しく不思議なエッセイ。

帯留め(四)

 やがて、古い紙箱が掌に載せられてきた。
 店主はそれを受け取って、濃い紫の天鵞絨ビロードを敷いた台に載せて、箱を開いた。
 長さ五センチほどの帯留だ。
 一瞥した瞬間、今までの物とは、格が違うのが見て取れた。
 18金を台にした半身の鮎が、涼やかに身を泳がせている。
 四分一の中でも銀の多いおぼろぎんと呼ばれる合金に、金象嵌が施されている。だが、目を射るような光はすべて、品の良い濃淡で殺してある。
 計算され尽くした造形だった。
 背から腹部に掛けての真に迫った魚の色味、むなびれの上に並んだ斑点、そこから緊張感のある側線が尾に続いていく。
 大きく精悍な唇も目も、生きているかのごとくだ。そして、流れるような背鰭が、まさに、この鮎が清らかな流れの中を遡上していることを知らせてくれる。
 名工の作だ。
 絶対の自信があるゆえに、れんもなく、ただ純粋だ。
「これは、」
 賛辞が喉に詰まった。にわかに襟足がそそけ立つ。
(まずい)
 身に覚えた感覚に、心の奥がひやりとした。
 が、途端、止める暇もなく、私は呟いていた。
「……よくぞ、残っていてくれた」
 涙が零れた。
 同時に、私は心の中で「誰!?」と、大きく叫んでいた。
 しまった。
 取り憑かれた。
 今の言葉と涙は、私とは違う誰かの思いだ。
 漏れるえつこらえる私に、時計屋夫婦が無言で顔を見合わせる。
 ええ、そりゃ、驚くことでしょう。私自身、びっくりだ。
(誰? 親父さん? それとも、作者?)
 探ったものの、当人たちとは面識がないから、わからない。
 年配の男性というのは、確かだ。そこそこ時代が古いのもわかる。
(よくぞ、なんて言わないでよ! 時代劇じゃあるまいし)
 心で私はもだえたが、肉体はかしこまった様子で鮎を眺めているだけだ。
(困った)
 離れそうにない。
 見知らぬ男性が、私以上に感激し、喜び、むせび泣いている。
(やめてよ。もう、恥ずかしい!)
 二度と、店に来られないじゃないか。
 しかし、抵抗は虚しく、すべて封じられた。
 強い。
 怖くなってきた。
 そのとき、店主が言葉を放った。
「そんなに感激して下さるなら、お譲りしてもいいですよ」
「えっ?」
 私自身が驚いたせいか、はたまた物欲にはね飛ばされたか。声と同時に体がすっと楽になった。
 店主は再び鮎を取り、腹に彫られた銘を示した。
「これはうんしょうみんの作です」
「え……ええっ!?」
 海野勝珉とは、幕末に生まれ、明治彫金界の主流を成した名工だ。
 私は以前、彼の作品を宮内庁三の丸尚蔵館で観たことがある。
 作者がその勝珉ならば、素晴らしいのは当然だ。
 しかし、逆にこうなると、安易に欲しいなどとは言えない。
 欲しいのは確かだが、欲しいけど……。
 私は再度、鈍い光を放っている鮎の帯留を凝視した。
「売るおつもりなかったのでしょう?」
 恐る恐る、私は言葉を継いだ。
 店主はゆるりと首を振る。
「いいんですよ。誰ともわからない人には売りたくなかったので、外に置かなかっただけですから。けど、持っていても、私が死んだ後、二束三文で処分される可能性がありますからね。まあ、あまり安くはできないので、よろしければ、という話ですが」
 そう言って提示された値段は、確かに安いものではなかった。
 それだけの金額を出せば、ウィンドウに並んでいた帯留がいくつも買える。
 しかし、困ったことに、店主が口にした鮎の価格は、私が覚悟したものの半分以下だったのだ。
 これが相場なのか、はたまた破格に安いのか。いや、贋物ということもある。
 安い。いや、高い。高いけど……。
 何をどう言い訳しようと、既に心は決まっていた。
 息を吐き、私は天を仰いだ。
「この辺りに、ATMはありますか」(つづく)

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加門七海

かもん・ななみ●東京都生まれ。多摩美術大学院修了。学芸員として美術館に勤務。1992年『人丸調伏令』で小説家デビュー。日本古来の呪術・風水・民俗学などに造詣が深く、小説やエッセイなどさまざまな分野で活躍している。ひとり百物語を特技とするほど、豊富な心霊体験を持つ。また、オカルト・ルポルタージュでも注目を集めている。著書にエッセイ『うわさの神仏』『うわさの人物』『猫怪々』『お祓い日和 その作法と実践』『鍛える聖地』『大江戸魔方陣』『もののけ物語』『たてもの怪談』、小説に『祝山』『目嚢』など多数。

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