2023.2.15
『プラダを着た悪魔』で卒業論文は書けるのか?――映画批評家が教える「自分だけの問い」の見つけ方
ストーリーを追うだけでなく、その細部に注目すると、意外な仕掛けやメッセージが読み取れたり、作品にこめられたメッセージを受け取ることもできるのです。
せっかく観るなら、おもしろかった!のその先へ――。
『仕事と人生に効く 教養としての映画』の著者・映画研究者の伊藤弘了さんによる、映画の見方がわかる連載エッセイ。
前回は、井口奈己監督の『人のセックスを笑うな』を読み解きました。
今回は、誰もが知る人気映画『プラダを着た悪魔』をテーマに選び卒業論文を書くとしたら……を実践的に解説します。
『プラダを着た悪魔』をバカにする映画研究者
確か2016年頃だったと思うが、僕が参加した映画研究者たちの飲み会の席で、『プラダを着た悪魔』(デイビッド・フランケル監督、2006年)が話題に上ったことがある。当時の僕は博士後期課程に籍を置く大学院生だった。
大学で教鞭をとっているある映画研究者が、最近の学生が古典的な映画をほとんど見ていないことを嘆くような発言をした。その流れで「『プラダを着た悪魔』で卒業論文を書こうとする学生までいる」という趣旨のことを言ったのである。
この文脈で例に挙げられた『プラダを着た悪魔』には、明らかにネガティブな意味合いが付与されている。あえて悪意を強調してその真意を言語化すれば「『プラダを着た悪魔』のような中身がスカスカの娯楽映画で卒論など書けるわけがない」ということになるだろう。
その発言を聞いて、僕はいくぶんかムッとした。というのも、『プラダを着た悪魔』は僕の好きな映画だったからである。もちろん、「好き」には程度があり、また、好きな映画が必ずしも論文の対象になるとは限らない。とはいえ、せっかく学生が(おそらくは)好きでその映画を取り上げようとしているのだから、教員としては、まずはそれを可能にする方法を考えるべきだと思う。
今回は(多分に私情が入り込んでいるが)卒論で『プラダを着た悪魔』を取り上げる場合を想定し、どのような手続きを踏めばいいかを検討しながら映画を分析してみよう。もちろん、これを読む人の多くは今後卒論を書く予定などないだろう。しかし、そのような人にとっても有用な内容になると思う。なぜなら、卒論を書く技術はそのまま映画の感想を言語化する際に応用できるものだからである。
そもそも、論文とはどのようなものか?
論文とは何かを明らかにするために書かれるものである。そのためには、まず答えるべき問いが必要である。学生が書く論文でも、研究者が学会誌に投稿するような論文でも、その点は変わらない。適切な問いが見つかれば、論文はもう半分書けたようなものである。
というのは、適切な問いは答えとセットで考えるべきものだからだ。したがって、問いが見つかった段階で、すでに答えはほとんど出ているということになる。あとは問いからその答えに至るまでの過程を説得的に論じる(論証する)だけである。
これだけ聞くと簡単そうに思われるかもしれないが、実際にはものすごく難しい。多くの学生は、長年にわたる学校教育を通じて「与えられた問いに答えること」には慣れている。受験勉強はその最たるものだろう。しかし、論文を書く際には、自分で問いを立て、それに答えなければならない。「いい論文」を書くためには「いい答え」を導けるような「いい問い」を、自分で考えなければならないのである。
大学や学部にもよるが、一般的な卒業論文に求められる文字数は2万字前後だと思う。ちょうどその分量で答えられるような問いを見つける必要がある。論文を書くことに慣れていない学生は、適切な問いのサイズを見定める段階でまずつまずく。多くの場合、問いが大きすぎるのである。
たとえば「映画とは何か?」という問いがある。だが、これは問いとしてあまりに壮大すぎる。僕の知る限り、この問いをタイトルに掲げた書籍が3冊存在するが、本1冊をかけてようやく論じられるかどうかという大きなテーマなのである。
「映画とは何か?」という問いに対して「人々が見た夢の残骸である」といった文学的な答えを設定し、2万字で論じることは不可能ではないと思う。しかし、よほどの戦略と技術がないと、説得力を欠くぼんやりとした議論に終始してしまう危険性が高い。学部生の手には余るだろう(何かサブタイトルをつけて、ある時代に限定した映画の技術的な定義を試みるというアプローチならば、あるいは成立するかもしれない)。
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