2022.12.14
新作『すずめの戸締まり』まで連なる、新海誠作品における「孤児」たちの系譜――なぜ、誰かを「ケアする」人物を描くのか
「生活」を背負う子どもたち
孤児ゆえに、彼/彼女らは自立/自律して生きることを強いられている。それは精神的な面だけでなく、じっさいの生活面にも及ぶ。具体的には、誰が家事労働を担い、場合によってはより年若い家族の世話をするのかという問題に行きつく。
新海作品では、子どもたちが頻繁に台所に立つ。両親がいなかったり、仕事で不在だったりするために、自分で食事の準備をしなければならないからである。
もっとも、『秒速5センチメートル』の明里の場合は、好意を寄せている貴樹に手料理を振る舞いたいという思いが強く感じられる。明里が握った大きなおにぎりを口にした貴樹は「今まで食べたもののなかで、一番おいしい」と言ってその思いに応える【図2】。とはいえ、やはり両親が留守がちであるために自分で料理をする機会が多いことを示唆する描写ではある。
同様のシーンは『星を追う子ども』にも見られる。明日菜は、夜勤で家を空けることの多い母親に代わって料理をする。その延長で、自分の窮地を救ってくれたシュンに手作りのサンドイッチを振る舞う【図3】。その前には、怪我をした左手の治療をおこなっている(先ほど述べたように、明日菜の母親は看護師であり、彼女自身にも心得がある)。『すずめの戸締まり』の鈴芽(震災で亡くなった母親が看護師)も、怪我をした草太を自宅に招き入れて治療し、彼が呪いによって椅子に変えられたあとは食事を提供しようと試みていた(結果として椅子の状態の彼はモノを食べる必要がなかったが)。
『天気の子』の陽菜もまた、帆高が自宅を訪れた際に手料理を振る舞っている。彼女たちは、子どもながらに率先して他者のケアをおこなう存在なのである。
このように該当するシーンを列挙してみると、新海作品ではもっぱら女性ばかりにケア労働を押しつけているかのような印象を抱かれるかもしれない。しかし、主として男性側がケアを担っている作品も存在する。それが『言の葉の庭』である。
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