2022.9.2
バブル世代「会社の妖精さん」の行く末は 第3回 五十代からの「楢山」探し
その思想は日本の組織において、うまくはまりました。昭和の時代までは、年功序列という感覚が通用し、企業の中でも人々は安心して、定年までを過ごすことができたのです。
しかし今、そのような感覚は崩壊しています。長幼の序のみならず、男女の別であれ君臣の義であれ、儒教的な感覚はすこぶる評判が悪い今の時代。年齢が上だからといって、自動的に敬わなくてはいけないわけではないんでないの?……ということに、人々は気づいてしまったのです。
年功序列が通用していた時代は、年長者は皆、知識や経験を積み重ねているものだとされていました。が、実力主義的な感覚が海を越えて日本に入ってくると、年をとるだけで何か良いものが積み重なるわけではない、ということも自明に。
同じ頃、日本にデジタル革命というものが到来したことも、年長者の立場を危うくしました。コンピューターなどのデジタル機器を使いこなすことが仕事においては必須になってくると、デジタル弱者の中高年達は、ますます窮地へと追いやられることになったのです。
かくして現代の中高年は、自ら楢山を見つける旅に出ることになったのでした。しかし現代の楢山は、おりん婆さんにとっての楢山とは違います。おりん婆さんにとっての楢山が意味したものは、「死」すなわち人生の終着点。『楢山節考』の舞台となった村では、人生の定年が七十歳だったのです。
対して五十代から楢山探しをしなくてはならない現代では、自ら探した楢山において、人はどうにか生き続けなくてはなりません。人生が百年も続くのであれば、楢山にすら居づらくなって、次の楢山や、次の次の楢山を見つける必要も出てきましょう。
少子高齢化が進む現代は、昔よりもずっと若さの価値が高くなっているけれど、人の寿命はどんどん伸びている、という世。若さという偉さにあぐらをかいていられる時間はあっという間に終わり、その後は延々と、自分にとっての楢山探しを続けなくてはならなくなったのです。
少子高齢化がこのまま進み、極端に少ない若者達の頭上に大勢の高齢者が乗っかっているという世の中になったならば、「若さの偉さ」はさらに高まり、大人達は若さへの賞賛の声を今よりもっと強めるに違いありません。しかし大量の高齢者から、
「若いねーっ!」
と口々に言われたとしても、未来の若者達は、果たして嬉しいのかどうか。そこに不吉さを感じこそすれ、かれらは決して「私って、若いから偉いんだ!」といった勘違いはしないに違いない。
我々が今、五十代から楢山探しをしているのも、昭和の時代に若さの偉さなどというものを無邪気に信じていたせいなのかもしれません。とはいえ楢山が、住みづらい山であるとは限らない。「楢山って、案外楽しいところなのかも」などとつい山の彼方に期待してしまうのもまた、妖精世代の特徴なのかもしれません。
*次回は10月7日(金)公開予定です。
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