2022.9.2
バブル世代「会社の妖精さん」の行く末は 第3回 五十代からの「楢山」探し
そんな時に私は、「素晴らしく年をとっている」ということを言い表す言葉が日本語に存在すればいいのに、と思うのでした。そのような言葉があれば、まるでウサギと見たら人参を与えるかのように、高齢者に「見えませんねぇ!」という言葉を投げかけずに済むのではないか。そして高齢者を単に「年をとった人」としてのみ見るのではなく、個人として見る視線につながるのではないか、と。
考えてみると、「若さ」や「若い」という言葉の対義語を、我々は持っていません。「高さ」に対する「低さ」のような、そして「高い」に対する「低い」のような言い方が、「若さ」「若い」には見当たらないのです。無理やり対義語にするならば、「年をとっている」ということになりましょうが、若者に対して「若いねーっ!」と言うように、
「年とってますねーっ!」
と高齢者に言ったなら、喜ぶ人は少ないことでしょう。
「年をとる」という表現に、すでにマイナスイメージが染みついてしまっているということで、昨今は「年を重ねる」という言い方が、多用されています。その方が、何かが積み重なるかのような厚みが感じられるということなのだと思いますが、中高年向けの商品の広告などでは「年を重ねる」が連発され、決して「年をとる」という言い方は使用されないのです。
しかし「年を重ねる」もまた、言葉の上での言い換えでしかありません。わざわざ言い換えなくてはならないほど、年齢が上がっていくという事態は悲観すべきことなのだという感覚がかえって強まる気がしてならず、私は頑なに「年をとる」という言い方を使い続けているのです。
「若い」は、年齢が低いことを形容する言葉です。が、年齢が高いことを示す言葉は、「老いる」「老ける」のように、動詞。このことは、人は年をとることはできるけれど、決して若くなることはできないという事実を示しています。「若返る」という言葉はあれど、それは単なる気分や見え方、もしくは思い込みの問題なのであり、年齢が逆行するという意味ではない。
また、年齢が高くてもそうは見えない人に対する「若々しい」という形容詞もあります。が、それはほとんど「見えませんねぇ!」と同義の言葉。本当に若い人には「若々しい」とは決して言わないのであって、「々」の字には、老いに対する憐れみがこもっているのではないか。
こうしてみると、儒教というのはなかなかうまいことを考えたものだ、と思えてくるのでした。「長幼の序」というのは孟子が説いた言葉だそうで、年下の者は年長者を敬い、年長者は年下の者を慈しむというあり方を示しています。運動部などでは、「先輩の言うことには絶対服従」的に捉えられている言葉でもある。
しかし「とにかく年長者を敬え」というのは、「年長者は、放っておくと敬われなくなりがち」だからこその言葉だったのかもしれません。孟子が生きた時代であっても、若さの価値があまりに輝いていたからこそ、「とにかく年上は大切にしろ」という規範のようなものをつくったのではないか。