よみタイ

バブル世代「会社の妖精さん」の行く末は 第3回 五十代からの「楢山」探し

 若さの偉さ、というものに自覚的になったのは、私の場合は高校時代だったかと思います。中学時代までは子供扱いされていたのが、高校生になると周囲の大人から、
「高校生なんだ、若いねーっ!」
「お母さんは何歳? えっ、俺より年下じゃん」
 など、しきりと若さを持ち上げられるように。そんな言葉を聞くうちに、「若いということは、偉いということなのだ」と、勘違いしてしまったのでしょう。
 いつの時代も、若者は自分達だけにしか通じない符丁のような言葉を使用するものですが、そんな若者言葉を理解することができない親世代を、高校時代の私は鼻で笑っていました。それどころか、大学生のことすらも「もうおばさんじゃんね」的に見ていたものでしたっけ。
 とっぷりとエイジズムに浸かっていた、若い頃の自分の表情を思い浮かべれば、バブル世代を揶揄する今の若者の表情と同じであることが理解できるのであり、「因果応報」という言葉が頭に浮かびます。
 昨今の若者は、ただ若いというだけで自分が偉いとは思っていません。少子化が進んで数的不利に立たされている若者達はすでに、むやみに大人に反発しない「いい子」ばかり。そう思えば、若いというだけで理由もないのに偉そうにしていたかつての自分のエイジズムっぷりが、恥ずかしくなってくるのでした。
「若いは偉い」という感覚に、自分も首を締められている今。ではなぜそのような感覚が存在するのかと考えてみると、そもそもとにかく日本人は新鮮なもの、目新しいものが大好きなのだ、という説があります。だからこそ大人達は、新米やら初鰹やらが出てきた時と同じような感覚で、
「若いねーっ!」
 と、若さに感動するのではないか。
 自分が若かった頃は、「若いねーっ!」と言われても、返答のしようがなくて困ったものです。しかし自分が大人になってわかったのは、子供を見れば「大きくなったね」、若者を見れば「若いね」と、当事者がポカンとしてしまうようなことを言わずにはいられないのが、大人という生き物。それらはほとんど、新米がとれた時に神に捧げる、感謝の祈りのようなものなのでしょう。
 もちろん私も、自分が大人になって以降は、若者と身近に接した時はつい、
「若いねーっ!」
 と言ってしまう者です。若さは才能やら努力やらの結果として得るものではなく、単なる「状態」ではあるのですが、富士の高嶺と相対した時のように、若くない人々は若さに感嘆し、それを仰ぎ見てしまう。
 加齢によって余儀なくされる様々な衰えを自覚した者にとって、艶やかな髪や弾力のある肌を目の当たりにした時に感嘆の声をあげるのは、自然な反応ではあるのでしょう。しかしあまりに若さを寿ぐ声が強いせいで、年をとることに対する忌避感が強まり過ぎている気も、するのでした。
 加齢による衰えもあれど、一方では大人になったからこその楽しみや満足感も、多々得ている我々。にもかかわらず、若者を見た瞬間、それらを忘れて若さを賛美してしまうことにより、大人の自信は削られている気がしてなりません。大人だからこその喜びにもっと自覚的になることによって、「若さという偉さ」への過剰反応は減少し、年をとることへの忌避感もまた、少なくなっていくのではないでしょうか。
 テレビのバラエティ番組などを見ていると、ロケ先で出会った高齢者に、
「お母さん、おいくつですか?」
 などと年齢を聞いたタレントは、その相手が何歳であろうと、そして実際には何歳に見えようと、
「見えませんねぇ!」
 と言うことになっています。すなわち、「八十五」とその人が答えたのなら、「とてもその年齢には見えません。せいぜい七十代かと思いました」という意の反応を返すのであり、スタジオの雛壇にいるタレント達も、
「見えなーい!」
 と、一斉に唱和する。
 この「見えませんねぇ!」を聞く度に私は、「年をとることは、そして年齢が高いということは、そんなにも悪いことなのか」と思うのでした。テレビに映っている女性は、「まぁ、それくらいのお年だろうな」という感じの見た目なのであり、「見えませんねぇ!」は明らかにサービス、もしくは礼儀としての発言です。その背景には、「年をとるのは良くないことであるからして、すでに年をとってしまったかわいそうな人に対しては、必ず『実年齢よりも若く見える』と言ってあげなくてはならない」という思い込みがある。
 高齢者の年齢を聞いたら必ず「見えませんねぇ!」と返す、というこの定型のやり取りもまた、エイジズムの一種なのではないかと私は思います。言う側としては思いやりのつもりでも、年をとった人を下に見る視線が、そこにはありはしまいか。

1 2 3 4

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Facebookアカウント
  • よみタイX公式アカウント
酒井順子

さかい・じゅんこ
1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。大学卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』『男尊女子』『家族終了』『ガラスの50代』『女人京都』『日本エッセイ小史』など多数。

週間ランキング 今読まれているホットな記事