2022.10.28
あの頃キミは尖ってた~90年代のバーミヤンと際コーポレーション
「現地風の店」が出店すると、なぜこれほど日本人は喜ぶのか。
日本人が「異国の味」に求めているものはなんなのか。
博覧強記の料理人が、日本人の「舌」を形成する食文化に迫るエッセイ。
前回は、名古屋発祥とされる「大陸系中華」とはなんぞや?というお話でした。
引き続き、「日本のなかの中国(華)料理」の変遷に迫ります。
本場の中国料理がやってきた【前史】 バーミヤンと際コーポレーション
一般に「中国料理」と「中華料理」は、ほぼ同じ意味で使われていますが、僕自身はそれを微妙に使い分けています。中華料理は海老チリや回鍋肉、焼き餃子や担々麺など、日本人の味覚に合わせて生まれ、発展した料理。それに対して中国料理は、中国で食べられている本場そのままの言わばエスニック料理、というのがその使い分けです。もちろんその中間的な、どちらとも言い切れないスタイルも少なからずあるわけですが、世の中のお店はだいたいこの中国料理店か中華料理店のどちらかに分類できるのではないでしょうか。
前回、回転テーブルに象徴される宴席中華について少し触れましたが、そういう高級店ではこの2つの方向性の店が両方とも偏在していました。あくまで「中華料理」路線の宴席コースでは、青椒肉絲の肉がブランド和牛になり、海老チリの海老に車海老を使用する、などの高級化がなされます。片や「中国料理」路線なら、本国から厨士を招聘して、本場のハイエンドな店と同様の凝った珍しい料理が展開されます。前者は特にその無難さが接待向きと言えるかもしれません。後者はどちらかというと「食通」向けと言えるでしょう。
それに対して「テーブルが廻らない」庶民的な店は、かつてはほぼ全てが「中華料理」でした。東京で最近「町中華」と呼ばれるような店は、その極端なもののひとつです。看板メニューがラーメンとチャーハンに加えて豚生姜焼き定食だったり、カツ丼やオムライスまで出していたり、東京外から来た僕のような人間だと、それはもはや中華料理店ですらないのでは? と感じてしまいます。少なくとも中国料理の要素はほぼ皆無です。
現代の、特に都市部では、庶民的な本場中国料理もぐっと身近なものになりました。中国人が同胞を主な顧客として営む中国料理店が増加しているからです。この流れはせいぜいこの10年くらいで、あれよあれよという間に進行した印象があります。なぜこのような(嬉しい人にとってはとても嬉しい)状況がもたらされたのか。今回からはその歴史を追ってみたいと思います。
現代につながる流れとは直接の関係は薄いのですが、その前史として個人的にファミレスのバーミヤンに触れないわけにはいきません。バーミヤンの創業は1986年です。僕が利用するようになったのは1990年代後半になってからですが、少なくともその頃のバーミヤンは中華料理店ではなく中国料理店でした。つまり当時は高級な宴席料理の食通向けコンテンツであった中国料理を、庶民的な中華料理より更に安価に提供する革命的な店だったのです。
もう少し正確にいうと、バーミヤンは中国料理だけではなく、中華料理も一通り提供していました。しかしメニューにおけるリコメンドや季節ごとの特別メニューで、明らかに推されているのは中国料理の方でした。ジャンルこそ違えど、現在のサイゼリヤとよく似たコンセプトと言えます。
しかし残念なことに当時このコンセプトは、あまり理解されずじまいだったようです。実際当時のバーミヤンで店内を見渡すと、ほぼ全てのお客さんが「中華料理」の方だけを食べていました。家族が各自ラーメンや炒飯を食べつつ真ん中に置かれた焼き餃子をシェアするその光景は、結局、前回触れた町の中華屋さんと同じだったというわけです。小学生男子が回転テーブルを廻しすぎて醤油を倒す光景があるかないかだけの違いです。
つまり当時バーミヤンを訪れていた人々はそこを「ものすごく安い中国料理店」ではなく「ちょっと安い中華料理店」として認識していたわけです。しかも、どぎつさの無い味付けや日本で馴染みの無い香辛料も使うべきところでは使う方針も、いかにも中国料理店らしく、それこそ町中華などとは対極に位置するもの。それが口に合わない人も多かったのか、「安いがマズい店」という口さがない評価が下されることもしばしばだったと思います。
もし当時が今のようなネット社会で、どこかのお調子者が「バーミヤン☆100%攻略法」なんていうふざけたブログ記事でもバズらせていれば、少しは状況に一石を投じることができたかもしれません。しかしもちろんそうはなりませんでした。バーミヤンは2000年ごろだったかと思いますが、メニューを全面的にリニューアル、晴れて「中華料理店」に生まれ変わりました。その時のメニュー内容は、かの〔餃子の王将〕をベンチマークしたものという印象でした。おそらく多くの人々がこの転身を歓迎したのではないかと思います。僕自身はすっかりそれで足が遠のくことになったのですが。