2021.2.13
「デメリットしかない」ー妻の不妊治療提案をはね退けた夫の言い分(第2話 夫:康介)
夫婦の歪みが顕在化した夜
「ねぇ、病院に行ってみない?」
――振り返ってみると、あの夜がきっかけだったかもしれない。結婚2周年を迎える直前の話だ。
就寝前のスキンケアを終えた麻美が寝室に入ってきて、ナイトスタンドを消しベッドに潜り込んで、いつも通り康介が妻の肌に触れようとした瞬間……彼女が言ったのだ。
「不妊治療で有名なクリニックを教わったの。ほら、同じマンションの亜希さん。彼女も治療してて詳しいみたい。私たちも一度試しに行ってみようよ」
暗闇の中で、麻美の目が光っているのがわかった。夫がどういう反応をとるか、つぶさに見守っているのだ。その粘着質な視線が嫌で、逃れたい一心で、康介は「ああ、うん」とだけ答えた。
しかしまるで行くつもりなどないことに麻美も気づいていたと思う。その証拠に、康介の気のない返事を聞くと彼女はその後ひと言も発せず、小さくため息だけついて眠りについた。
正直、ホッとした。「麻美を選んでよかった」と改めて思った。
麻美はこういうとき康介を責めたりしない。波風立てることを嫌う彼女の元々の性格もあると思うが、それ以上に聡明なのだ。
康介が勤める大手法律事務所で人気No.1アシスタントだった麻美。清楚で柔らかな雰囲気を纏う美貌に惹かれたのはもちろんが、生涯のパートナーに選んだ理由は他にある。
まず、美人は高飛車と相場が決まっているのに彼女に限ってはまるでお高くとまったところがなかった。常に康介を立ててくれたし、他の女のようにだらだらとオチのない話もしない。
それから、急に不機嫌になるとか怒り出すとかいうことも一度もなかった。
ロジカルな討論ならばともかく、感情をぶつけ合うことにまったく意味を見いだせない。そんな康介にとって、麻美の物わかりの良さは最大の美点に映ったのだ。
白状してしまうと、康介は不妊治療をしてまで子どもが欲しいと思っていない。
もちろん、結婚した当初は「俺もそのうちパパに……」などと考えたこともある。康介は長男でもあるし、両親からの圧がないこともない。
しかし1年経っても2年経っても自然にはできなかった。回数が多いとは言えなくとも、営み自体は定期的にあるにも関わらず。
それでもクリニックに行こうなんて、康介は考えたこともなかった。診察を受け、「誰に」「どこに」問題があるのか調べるなんて絶対に御免だ。検査をして、もし夫が「種ナシ」だとわかったら……? 妻は自分を捨てるつもりだろうか。そんな屈辱は耐えられない。
逆に麻美の方に問題がある場合だってデメリットしかない。
是が非でも子供が欲しいというわけではないにしろ、妻が「産めない女」だと知ってしまったら……見る目が変わらないとも限らない。自分が聖人君主でないことを康介はよくよく知っている。
それならば余計なことはせず、優雅にDINKSライフを満喫すればいい。それで十分だ。トラブルの種を自らわざわざ撒く必要なんかない。
そもそも結婚前も結婚後も、麻美の口から子どもが欲しいとか子育てがしたいというような話を聞いたことがなかった。同じマンションの“妻友”と子づくり話なんかしていたこと自体、康介にとってはかなりの驚きだったのだ。
きっと周りに影響されたんだろう。一時の気の迷いだ。そんな風に解釈し、康介は妻の提案をなかったことにした。