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「デメリットしかない」ー妻の不妊治療提案をはね退けた夫の言い分(第2話 夫:康介)

その後、何かが急に変わるということはなかった。

麻美は変わらず豪勢な和朝食を準備してくれるし、流れ作業感はあるものの“行ってきますのキス”も欠かさない。

ただ、互いに適度な距離を置くようになった。

例えば帰宅時刻や夕食の要否など、必要なやりとりはしても、その日の出来事をつぶさに語ったり、ゆっくりと将来を語らうことはしない。二人で仲良く食事に出かけることはあっても、高級鮨やカウンターフレンチを選んで、お互い会話より食に集中している。

とはいえ、康介も不妊治療の話を蒸し返されたくなかったし、そんな変化も最初はむしろ好都合、くらいに捉えていた。そのうち夫婦生活もなくなったが、実はこのことに関しても康介はほとんど気に留めていない。

年齢的に性欲自体が減少しているし、何より麻美が不妊治療の提案などという余計なことをしたせいで、そういう行為に及ぼうとすると「子作り」が頭をかすめ、萎えてしまうのだった。

そして、麻美の方だって、そんな夫婦関係を良しとしていたはずだ。

例の件があってから特に、妻は夜に出歩くことが増えた。しかし康介がそれに文句を言ったことなどないし、どこで何をしているのか追及もしない。お互い必要以上に干渉せず、自由に暮らす。それでうまくやってきた。

それなのに、近ごろの麻美は隠しきれない不満を滲ませてくるのだ。しかも面と向かってではなく無言で、じわじわと。

――まったく。俺にどうしろというんだ。

せっかく手に入れた高級マンションなのに、家での居心地を悪くされたくない。何かプレゼントでも贈れば変わるだろうか?

ああ、面倒だ。康介は頭を振り、麻美について考えるのをやめた。

懐かしい女との再会

丸の内のオフィスビルに到着し、自席にバッグを置くと、康介はノートと筆記具だけを持って会議室へと向かった。

「櫻井さん。ご無沙汰してます」

部屋に入ると、懐かしい女性の顔があった。ボブだった髪が伸びている。しかし躊躇なくこちらを見据える、まっすぐな瞳はそのままだ。

「小坂さん。お元気そうですね」

無意識に声が弾む。頬が緩んでいるのも自分でわかった。小坂瑠璃子。彼女と会うのは、実に5年ぶりである。

瑠璃子はSNSから火がついた売れっ子ライターで、WEBを中心に数々のメディアに記事を寄稿している。

今から5年前、彼女がブログに書いた小説がバズって映像化されることになった。その際に、著作権まわりの取り扱いが曖昧でトラブルに発展し、知人経由で康介を頼ってきたのだった。

「その節は本当にお世話になりました」

苦笑いで前髪をかきあげる、彼女の左手に目がいった。薬指に指輪は、ない……ということは、まだ独身か。無意識に確認していた。

「ええっと、契約書のチェックでしたね。今度は書籍の出版……?」

「そうなんです。もうトラブルは避けたいので、櫻井さんにしっかり確認してもらおうと」

康介は早速、手渡された書類に視線を落とす。瑠璃子はマスクをずらし、アシスタントが用意したコーヒーに手を伸ばした。

しかし3分も経たぬうち、彼女は再び「櫻井さん」と康介の顔を覗き込んだ。

「メールでもよかったんですが、久しぶりにお会いしたくって。あの、このあと、よかったら一緒にランチいかがです? 忙しいかしら」

上目遣いで誘われ、思わず狼狽うろたえてしまった。

康介は見た目も悪くはないし、エリート弁護士の肩書きを持っている。しかし大学時代のほとんどを司法試験に捧げたうえ、事務所に入ってからも社畜のごとく働き詰めてきた男だ。実はさほど女性には慣れていなかった。

丸い、大きな瞳に見つめられ思考が停止する。

「い、いいですね。ぜひ……」

衝動的に答えてから、頭をフル回転させて予定を思い出した……大丈夫だ。このあともう1つアポがあるが12時半には終わる。

「えーっと、12時半には出られます」

「よかった。それなら近くで仕事しながら待ってますね」

康介は小さく咳払いをし、瞬きをしながら再び書類に視線を落とす。しかしにっこり微笑んだ瑠璃子の、厚みのある唇が瞼に残って消えなかった

(文/安本由佳)

※次回(妻:麻美side)は2月27日(土)公開予定です。

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新刊紹介

山本理沙

やまもと・りさ●84年 東京都生まれ。日本女子大学文学部卒卒業後、外資系航空会社客室乗務員、金融機関・コンサルティングファームの秘書業務を経てフリーランスへ。
2015年〜2019年に東京カレンダーWEBにて『東京婚活事情』『結婚願望のない男』『東京ホテル・ストーリー』など多数執筆したのち、2020年10月講談社文庫より初書籍『不機嫌な婚活』を出版。よみタイで好評連載中の漫画『恋と友情のあいだで』(里奈Ver.)共著原作者。『不良夫婦』では(妻side)を執筆。

Instagram●Lisa_fluffy
Twitter●山本理沙/WEB作家




安本由佳

やすもと・ゆか●81年 奈良県生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、化粧品会社広報、損害保険会社IT部門勤務を経てフリーランスへ。
2016年〜2020年1月 東京カレンダーWEBにて『二子玉川の妻たちは』『私、港区女子になれない』など多数の連載を執筆したのち、2020年10月講談社文庫より初書籍『不機嫌な婚活』を出版。よみタイで好評連載中の漫画『恋と友情のあいだで』(廉Ver.)の共著原作者。『不良夫婦』では(夫side)を執筆。

オフィシャルサイト●安本由佳
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Twitter●安本由佳|WEB作家@軽井沢

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