2023.5.3
どうして新宿ゴールデン街で働き始めるとモテるのか? 元・素人童貞が語る「欲望の三角形」
ローカルな聖典?
次に「②ゴールデン街における性愛に纏わる文章を書いているから」です。これは、文章を書いている人ならわかる感覚かもしれませんが、文章を書いていない人からすると全くわからない感覚かもしれません。
この間、面白いことがありました。今年の4/5に発売した『本当に欲しかったものは、もう Twitter文学アンソロジー』という書籍に1篇Twitter文学を寄稿させてもらっているのですが、4/8に渋谷の大盛堂書店でその本の出版イベントがありました。イベントには、寄稿者の麻布競馬場さんや、窓際三等兵さんもいました。
トークイベントのあとにサイン会の時間があったのですが、その時のお客さんの反応がそれぞれ面白かったのです。麻布競馬場さんに話しかける人は、「私、〇〇に住んでます」「東京の街だと、どこに住むのがお勧めですか?」と話しかける人が多く、窓際三等兵さんには「子供を小学校受験させようと思ってるのですが…」「僕もSAPIX通ってました」と話しかける人が多かったです。僕はというと、「風俗店で働いてるんですけど…」「ゴールデン街の〇〇でよく飲んでいるのですが」というものが多かったです。
書いている小説の内容によって、お客さんが話しかけてくる内容が全く違うのです。当たり前と言えば当たり前の話なのですが、どうしてこういう現象が起こるのだろう、と考えていたら、偶然、本屋さんで見つけた『文学の実効』という本にヒントがありました。
つまり、その時代には聖典と文学がつながっていた。「聖典(Scripture)」と「文学(literature)」という語はどちらも、同じ「書かれたもの」という語源を持つ。まったく同じものを二通りに言い換えたに過ぎないのである。(中略)
(文学の持つ)第一の偉大な力とは、物語である。物語は出来事と結びついており、その始まりと終わりを提示する。そのため、「この宇宙はどこから生まれたのか?」といった疑問にも答えられる。──アンガス・フレッチャー『文学の実効』(山田美明訳)より引用
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著者のアンガス・フレッチャーは、ヒンドゥー教の聖典の『ヴェーダ』やユダヤ教のトーラーなどが成立した時代には聖典と文学が分離していなかったことを本の中で指摘しているわけですが、「聖典(Scripture)」と「文学(literature)」という語はどちらも同じ「書かれたもの」という語源を持つということを考えると、今でも小説というのは、それぞれが極々狭い世界のことを物語的に表現しためちゃくちゃローカルな聖典だと捉えることもできると思います。
小説には、聖典のように読むことを通して自分、あるいは自分を取り囲む世界について物語的に理解することを手助けする性質があるので、性的なことを含めた女性との関係についての文章を書いていると、その文章を通して自分や自分の周りのことを理解しようと思ってくれた女性がお店に足を運んでくれることが多くなりました。
「私もこんな風に書かれてみたい」とか「こういう風に相手の男の人が思ってることを知れたら嬉しい」と率直に感想を伝えてくれた方もいました。そんな人たちがお客さんとして集まるのは周りから見ると異常な事態のようで、「山下さんって、モテるんですね」と周囲の人から言われるようになりました。
傍から見たら、自分の文章を好きになってくれた人がお店に来てくれているのでプラスなことにしか見えないと思うのですが、しかし実態はそんな単純なものでもありませんでした。自分のことを理解したい、理解してほしいという気持ちは人間にとって切実なものでありますし、それは時に恋愛感情と見分けがつかなくなることもある性質のもので、さらに加えて皆お酒を朝まで大量に飲んでいるということもあり、急に友達に電話をかけて「脈がないかもしれない」とカウンターで泣きはじめる人もいましたし、「どうせメンヘラが好きなんだろ!」と捨て台詞を残して店を出て行った人もいましたし、お店の閉め作業をして朝7時くらいにお店を出たら外で出待ちをしている人もいました。
僕の文章を読まずに僕にそうした態度をとってくる人は見事に1人もいないので、こういったことはやはり「②ゴールデン街における性愛に纏わる文章を書いているから」が理由であると考えざるをえません。
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