2024.11.21
「非モテ」概念で遊ぶうちに取り返しがつかなくなる男子校出身者の危険性【学歴狂の詩 最終回】
人はなぜ学歴に狂うのか──受験の深淵を覗き込む衝撃の実話です。
前回、マウント気質が強い〈非リア王〉と呼ばれる遠藤が登場しました。
今回はその後編かつ最終回。遠藤の顛末はいかに──。
また、各話のイラストは、「別冊マーガレット」で男子校コメディ『かしこい男は恋しかしない』連載中の凹沢みなみ先生によるものです!
お二人のコラボレーションもお楽しみください。
記事が続きます
予備校の「女の子いるやん問題」
今回は前回に引き続き、人類最小の男・非リア王遠藤について語りたい。前回は遠藤が類まれなマウント気質を持つ人間であり、住んでいる場所の地価で私などの滋賀人を馬鹿にしてきたり、京大志望でありながら阪大志望者に力を誇示するために阪大模試を受けて三位を取ったり、本番ではなぜか京大志望者として唯一同志社経済に落ちたり、京大経済に落ちた点差(一・五点差落ち)で周りを威嚇していた話をした。その後、京大法学部に三十点差で落ちていた私は京都駅前の駿台京都南校を再スタートの地に選んだが、遠藤はあの大政奉還の舞台となった二条城にほど近い駿台京都校を選んだ。
私が駿台の前期でかなりの好成績を残した話は連載第十一回でもした通りだが、予備校に通い出してすぐ、京大文系コースの生徒たちの様子を見て「こりゃいけそうやな」という感覚を抱いてはいた。どう考えても迷うところのないはずの問題で、ウンウン唸っている人間が少なくなかったからである。もちろんこれは私に限った話ではない。某R高内で上位の成績を残していたものの京大本番で散ったタイプの浪人生たちは、みな似たような感覚だっただろう。このまま勉強に専念し、無双し続けて勝ち切る――それが私たちの理想のレースプランであった。
だが、私たちは予備校に通う中で、それまで拠って立っていた「偏差値」以外の価値観を半強制的にインストールさせられるという大きな問題に直面していた。
それは言うまでもなく、「女の子いるやん問題」である。
非常に驚くべきことだが、予備校には女の子がいるという当然の事実に、私や遠藤は脳をクラッシュされていた。「まあ女の子はいるよなあ」と思ってはいたものの、本物の女の子を目の当たりにするとキョドらずにはいられなかった。それが私の場合には、第十一回に登場した帰国子女の女の子に対する憎悪のような感情に変換されてしまうこともあれば、普通に震えてビビり散らかすだけということもあった。私の通っていた京大文系コースには、今の時代こんな率直な感想を述べることははばかられるのだが、激烈なカワイコちゃんがいた。私は激烈なカワイコちゃんを非常に避けており、それがあまりにも避けまくりすぎだというので、某R高の隣のクラスにいた、浪人してから話すようになった今村という男が面白がって私をよくイジっていた。今村はむしろ予備校で「女の子と仲良くなるぞ運動」を推進しており、まだお母さんの選んだクソファッションに身を包んでいた私やその他某R高生とは次元の異なるオシャレに挑戦していた。
ある日、今村は何か変なものを首に巻いてきて、いつもより自信満々に振る舞っているので、他の某R高仲間と「ありゃなんや?」と訝しがりながらよく見ると、それはFENDIのスカーフだった。なんとも表現しようがないのだが、それは本当に取ってつけたような雰囲気で、FENDIのスカーフに操られて動く人形のように見えたので、私たちは懸命に笑いをこらえ、彼がいないところで腹を抱えて爆笑していた。あれほど笑ったのは人生でも数えるほどだというぐらい笑い転げたのだが、後になって、少なくとも私は今村の方が正しかったのだと悟った。私たちはオカンセレクトのファッションに安住するだけで、何の挑戦もしようとしなかった。服なんて選ぶ暇があれば勉強すべし、と自然に考えていたのだ。しかしそれは、人生を全体として見れば怠惰な姿勢だった。何も考えず勉強だけしていればいい、他のことにうつつを抜かす人間は愚かだ――この考えには浪人生にとって一定の正当性があるが、ある意味ではもっとも「楽」な選択であり、そして後にもっとも人生からの反撃を受ける思想だったのである。FENDI今村は当初FENDIに操られていたが、だんだんFENDIを着こなすようになっていき、マジのオシャレさんになっていった。私たちは誰も今村がオシャレになってきたと声には出さなかったが、おそらく心の中では思っていた。そして今村は、京大文系コースの激烈なカワイコちゃんとも対等におしゃべりし、なんと易々とメールアドレスをゲットしたのである。今村は私にそのアドレスが表示された画面を見せ、「ほれ」と言ってニヤリと笑った。私は嫉妬だったのか何だったのか、奇妙に視界が揺らぐのを感じたが、「へえ、ほんでどうすんの」みたいなことを平静を装って言った。
「別に。ただ聞いただけ」
今村はそう言って席に戻って行った。私の予備校のクラスでは今村が代表的だったが、このような怪しげな動きは各所で起きていた。もちろん遠藤のいる駿台京都校でも、誰が付き合っただの別れただのいう話が早々に持ち上がっていた。そんな色恋沙汰はオカンファッションの私たちには関係のないことだったが、ある五月の日、遠藤から来たメールに私は震え上がることになった。
「おい、島田くんがFさんと付き合ったらしいぞ!」
その時、私は世界が引き裂かれるのを見た。正直、京大法学部に現役で落ちた瞬間よりも裂けた。「島田くん」とはこれまた某R高の隣のクラスにいた京大法学部志望の男であり、Fさんというのは私も自習室で何度か見たことのある、これも今の時代の表現としてどうなのかとは思うが、ウルトラ爆裂美女として京都界隈で有名になっていた医学部コースの女の子だった。しかも遠藤の情報では、その二人の距離感からしてもう島田くんの操は失われている可能性が濃厚だということだった。私は遠藤のメールには塩対応で済ませるのが常だったが、その時ばかりは「そりゃ○すしかないな……」と怒りとともに返信した。
「○す言うてどないすんねん!」
「ええからお前、次の模試で第一志望を経済から法に変えとけ。島田くんの順位を下げるぞ」
「それで負けたらどないすんねん!」
「切腹するしかないやろ!」
「たしかに!」
こうして私たちは、島田くんが界隈一の美女Fさんと付き合って最初の模試で、共に京大法学部を第一志望とした。島田くんも某R高で上位の成績を収めていた猛者だったから、その時期の模試でA判定を取る可能性は高かった。それどころか、成績優秀者の冊子に載る可能性だって十分にあったのである。
島田くんの順位を下げる、あわよくば判定をBにする――
それが私の、そして遠藤の大目標となった。私たちはその短い時期、紛うかたなきソウルメイトであった。私の住む田舎の地価を馬鹿にしてきたこと、京大に落ちた点差でマウントを取ってきたこと、他にも数々の無礼を働かれたことなど、それらすべてがどうでもよかった。私たちは対島田砲としてそれまで以上に猛烈に勉強に励んだ。私と遠藤は予備校の校舎こそ違えど、真の戦友だった。
そうして迎えた模試の本番、私はまるで京大本番のように緊張していた。確実に島田を仕留める――その思いだけで、私は次々に問題を撃破していった。撃破しすぎたと言ってもいいほど撃破した。この模試は私のペーパーテスト・ベストバウトを決めるならベスト3に入る出来であった。冠模試ではなかったとはいえ、私はその模試で京大法学部志望者内7位入選となり、遠藤は11位、島田は23位だった。その結果を知った私たちは互いに健闘を讃え合い、京都校の夏季講習で出会った時にはほぼスラムダンクの山王戦の桜木・流川なみのハイタッチを交わした。私たちは興奮していたが、冷静に考えればこれほどダサいハイタッチはない。同じ講習にいた島田くんは頭をポリポリ掻きながら「やられたわー」と柔和な笑顔を見せ、休み時間には廊下で爆裂美女Fさんと喋っていた。もはや私も遠藤も、拳を握りしめてうつむく他はなかった。
島田くんはそれ以降順調に調子を落としていったが、秋口に破局してからというもの完全に復調し、後期に安定感を失い始めていた私は簡単にブチ抜かれた。結果的に私は京大文学部、遠藤は京大経済学部、島田くんは京大法学部に合格することとなった。
同じ合格なら、爆裂美女Fさんと付き合えていた島田くんの勝ちではないか? しかも俺は法から文に、消極的に志望を変更した。俺はすべてにおいて島田くんに敗北したのだ……
一方の遠藤は、京大経済合格後ほどなくして目の光を失っていた。今は知らないが当時の京大経済は卒業が楽という意味で「パラダイス経済」、通称「パラ経」と揶揄されてナメられていたし――法学部には「阿法学部」、文学部には「遊文学部」という蔑称があったがそれほど流行っておらず、「パラ経」が一番よく使われていた――、何より遠藤を傷つけていたのは、当時京大経済に存在した「論文方式」という入試方式で、普通なら京大合格はありえない成績だった知人が合格していたことである。遠藤は「俺は法学部の点数も超えとった!」と叫んでいたが、周りの某R高卒は遠藤の扱いに慣れていたため、「遠藤って論文やったっけ?」とイジって激怒させて遊んでいた。今考えればこれはあまりよくないことだし、論文合格者たちは何か常人にはとても書けないようなスーパー論文をブチかました才人だったのかもしれないのだが、少なくともその年に論文で経済に入った人間の普段の成績を見ると、一般入試組と差がありすぎたことは間違いなかった(論文入試は2016年度に廃止され、特色入試に変更されている)。
そして大学に入って何か月かたった頃、私は人生初の合コンを開催した。それは第十一回に書いた通り、数学ブンブン丸の片平と人類最小の男遠藤、そして私という、女性陣にしてみれば最悪のメンツだった。この会が失敗に終わってしまったことは必然と言えるわけだが、私はまだ大学生活を諦めてはいなかった。たしかその頃話題になっていた『失敗しない大学デビュー』というすがやみつる先生の本なども買って、何とか失われた青春を取り戻そうと必死になっていたような気がする。第六回で紹介した永森ともよく京都駅のベローチェや大階段で、女の子にどんなメールを送ればいいか、あるいは女の子から来たメールにどう返せばいいかという議論を活発に交わしていた。
ちなみに言うと、私は自分のことはてんでダメだったが、人のこととなるとメールがめちゃめちゃ上手いということが噂になり――当時はmixiというSNSが流行りだした頃で、京大生数人でネカマアカウントを作って誰が一番マイミクと呼ばれる友達を増やせるか争っていたのだが、私は友人の恋愛メール相談に乗りまくり女の子からどう返ってくるかのシミュレーションも丹念に行っていたため、その力を生かして書いた日記で圧倒的な数のマイミクを集め大差優勝していた――、第十回で紹介した二浪アニオタ柴原は好きな女の子をはじめてメールでデートに誘うという時、私に文面作成を依頼してきた。その結果柴原は見事初回デートにこぎつけ、なんとそのまま結婚したので、私は柴原の結婚式のスピーチでべろべろになりながらそのネタを話して猛烈にウケた。今でもそれが私の生涯でもっとも人にウケた瞬間である(もちろん、どんなメールを送っていたとしても、柴原の妻が柴原の誘いを受けていただろうことは皆わかっていた)。
そういうわけで(?)、私はとにかく自分の恋愛方面のヤバさを何とかしようという気持ちでがんばっていたのだが、遠藤はあの一回の合コン大失敗で完全に心をへし折られていた。遠藤は、森見登美彦先生の『太陽の塔』ではないが、京大生というだけでもっとチヤホヤされるはずだと思い込んでいたのである。
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