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天才・濱慎平がつぶやいた「こんなんもう手の運動やん……」【学歴狂の詩 第2回】

「佐川から東大文一にしろって言ってみてくれんか?」

 高二になり文理が分かれると、濱の圧勝ムードはより高まって手がつけられなくなった。その結果、私たちの定期テストはボクシング制を採ることになった。つまり1位の濱を「チャンピオン」とし、2位の人間を「1位」と呼ぶことになったのである。私は当初全体39位だった衝撃で戦略を練り直した上、今考えれば心身ともに破滅しかねないほどの時間を勉強にあてていたので、そこで「1位」になることが何度かあった。そうして校内での地位を確立し京大法学部に狙いを定めた頃、進路について担任との面談があった。

 当時、某R高校の面談といえば「で、お前は京大の何学部にする?」という内容に終始しており、それ以下の大学にしようとすると結構ウザい説得を受けたらしいが、私は最初から京大突撃以外のことは考えていなかったので、特に面談で担任と話すこともなかった。担任は面談で私の京大法学部志望を確認すると、「ところで濱のことなんだが……」となぜか濱の話を始めた。

「あいつは京大文学部と言っとるが、正直この後ずっと寝てても受かる。東大合格者の人数も増やしていきたいから、佐川から東大文一にしろって言ってみてくれんか?」

 担任がなぜ私にそんなことを言ったのかはわからなかったが、私は「まあ、言うだけ言うてみます」と答えた。そして馬鹿らしいとは思いながらも、「京大文はこのままやと寝てても受かるから、東大にしたらええのにって担任が言うとったで」と冗談めかして濱に伝えた。すると濱は少し笑いながら、シャーペンをありえない速度でくるくる回した。それから私が気づかないうちに、濱の志望校は東大文一に変更されていた。もちろん、濱が私の言葉に影響されたわけはない。私などはそもそも濱の話し相手にもならないし、高校生にもなれば自分のことは自分で決めるものだ。そこには濱自身の考えがあったのだろう。

 そうして高三になった頃、濱は受験勉強に飽きたような雰囲気を醸し出し始めた。私が鮮明に覚えているのは、生物の「リードα」という問題集を授業中に解いていた時のことだ。濱は猛スピードで問題を解きながら、心底うんざりしたといった様子で、「こんなんもう手の運動やん……」と呟いたのだ。濱と席が近かった私はそれを聞いて、「て、手の運動……」と思った。もはや濱にとって、大学受験において汗をかいて頭を働かせなければならない問題はなくなりつつあったのだ。私は戦慄し、他の友人らにこのことを伝えた。するとみんな感銘を受けて、「なるほどな、問題解くのが単なる手の運動になるぐらい全教科を身体になじませて、自動化せなアカンということや」と唸った。そして難問にぶつかったとき、その言葉を思い出して勇気づけられもした。しかし四年間、あるいは中学からの七年間受験勉強だけに集中し続けた私の経験からすると、濱の領域は神域である。努力だけで達することは不可能な場所があることを、私は思い知らされた。

 その後、私はいろんな人間に出会ってきた。大学でも天才だと感じる人間はいたし、作家でも天才だと感じる人間はいた。しかし、私はそもそも田舎の真性のアホなので、現実でどれほど差を見せつけられようと、「やりようによっては勝てる」という感覚を完全に叩き潰されてしまうことはなかった。もちろん、受験後の人生では評価がはっきりした数値で出ないということも大きいだろう。数値が出るとしても、それは自分にのみ責任のあるような、逃げ道のない数値ではない。大学の成績は少なくとも学部レベルではそれほど当人の実力を反映していないように見えたし、小説の価値は文学賞の有無や売上とはまったく別のところにある(と私は考えている)。

 だが、受験は違う。同じ問題を同じ条件で解き、それで敗北したなら、それは敗北でしかない。受験生たちは、何の言い訳も立たない場所で、「本気じゃなかった」などという言葉が決して許されない机の上で、宿命として与えられた環境も含め自らの全人生を投入して問題にぶつかっていく。これほど精神的な逃げ道のない、魯迅風に言い換えれば「精神勝利法」の通用しない戦いは、私の人生では他になかった。

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佐川恭一

さがわ・きょういち
滋賀県出身、京都大学文学部卒業。2012年『終わりなき不在』でデビュー。2019年『踊る阿呆』で第2回阿波しらさぎ文学賞受賞。著書に『無能男』『ダムヤーク』『舞踏会』『シン・サークルクラッシャー麻紀』『清朝時代にタイムスリップしたので科挙ガチってみた』など。
X(旧Twitter) @kyoichi_sagawa

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