2022.5.14
便利すぎる都会を離れて、不便のなかに楽しさを知る
楽を得るには、楽じゃないから、楽しい
「楽」という言葉にはふたつの意味があります。心身ともに安らかであることと、簡単でたやすいこと。後者ばかりが強調されて、前者は蔑ろにされていないだろうか。私にとっては前者の「楽」のほうが大切なのに。
大学生のとき、まだ一般的にはあまり広がっていなかったネットの世界に没頭しました。当時は友達からデジタル少女(?)と呼ばれ、ホームページをHTMLで作って、見知らぬ人と交流したり、写真で4コマ漫画のようなものを作ったり、「ピーヒョロロ……」という音と共に世界へと繋がる扉を毎日開き、シスアドの資格も取りました。
でもそのうち、HTMLを使わなくても、ホームページ制作は簡単にできるようになって、少しずつ興味を失っていきました。どうやら私は、ああでもないこうでもないと、試行錯誤することが楽しかったようです。
その頃、音楽の沼にもどっぷり浸かっていました。高田馬場駅から大学へ向かう間、レコード店に毎日のように寄り道をして、膨大なレコードの山の中から目当ての一枚をひたすら探す生活。先輩と一緒に“遠征”と称して、町田のレコード店に足を伸ばしたり、大学の帰りに実家から近い御茶ノ水を散策したり、渋谷の中古レコード屋にアルバイトの前に立ち寄ったりと、お店に行くことが楽しくて仕方ありませんでした。旅行で行ったオーストラリアでも、トランクいっぱいのレコードを買って持ち帰りました。当時の豪州は、その音源の価値ではなく、1枚なら2ドル、2枚組なら4ドルという値付けだったため、日本ではレアで手が届かないレコードが安く手に入ったのです。
今では、検索すれば海外から簡単に取り寄せることができるし、そもそもレコードである必要もありません。私も気づけばデジタル音源で収集するのが当たり前になりました。
でも、当時好きだったアーティストは今でも記憶にべったりと残っているのに、簡単に手に入るようになってから次から次へと知ったアーティストは、次から次へと忘却の彼方へと消えていきました。簡単に手に入れたものは、手放すのも簡単です。
20代後半からは、登山にハマりました。都会的な生活を送っていた私を知る友人は、私が山に登っていることを知って驚いていました。最初は富士山に始まり、その後は北・中央・南アルプスへ。東北、北海道、鹿児島の開聞岳や韓国岳も、移住するよりもずっと前に登頂しました。ロープウェイですんなり山頂に行けたなら、ここまで好きになることはなかったように思います。
手に入れることが目的だけど、手に入るまでのプロセスも込みで楽しい。楽じゃないから楽しい。簡単に手に入るものに、興味を抱くことができなくなりました。
デジタルに疎い人に、「こうすれば簡単にできる」と言うことは、それこそ簡単だけど、その人の心を震わせることは容易いことではありません。レコード店を駆けずり回って見つけたとき、体に鞭を打って山頂に到達したとき、そのときに大きな喜びが生まれるものだと思っています。
ITが発達して、SNSも広がり、わからないことはネットで調べることが当たり前になりました。以前は、ヘッドホンを買おうと思ったら、オタクの友達に電話をして知識を共有してもらいました。ついでに雑談もして、友達との繋がりもその度に色濃くなっていったような気がします。でも今は、「ググレカス」なんて言葉があるように、友人に連絡をして教えてもらうことすら逡巡します。
自分で調べればいいじゃん、と言われたらそりゃそうなんだけど、声を聞いて、どうでもいい話もしたい。それも無駄なことだと切り捨てられてしまうのは、なんだか寂しく思います。
ネットの恩恵を散々受けていて、もうないと生きていけないところまできてしまったのは百も承知。過去に戻れるわけでもなければ、おばさんの回想に付き合ってくれる若者がいるとは思えないけれど、人間味がどんどん失われていくような気がするのです。
温泉でのおばちゃん達との会話は、都会でなくしたものを回復させてくれるような感じがします。コンビニの若い店員さんの「気をつけてー」の一言は都会では聞けない言葉。ここでは当たり前のことが、私の人間力を復活させてくれるのでした。