よみタイ

東京と鹿児島の持ち家、二重ローンからの心地よい脱出

生まれ変わった部屋で、縁について考える

 契約書を作ったり、火災保険の加入をお願いしたり、マンションに申請したりと、慣れない作業をどうにか終えて、いよいよ鍵山さんの引っ越しの日が迫ってきました。
 ちょうど、その直前に東京に行く予定が入っていたため、最後に点検を兼ねて部屋を見にいくことにしました。
 慣れた扉を開けると、部屋はリフォームの完成を喜んだときと同じ顔をしていました。この部屋に別の人が住むと思うと、もっと寂しい気持ちになるかと思っていましたが、知った人が住んでくれる安心感なのか、なんだか晴れやかな気持ちです。
 メールで送ってもよかったのですが、なんとなく手書きで残しておきたくなって、伝え忘れた注意事項をまとめておくことにしました。近くにあるお気に入りの定食屋のことや、管理人さんの話が長いこと、紫外線のためにカーテンは残してあるけれど替えても構わないこと。
 お手紙と集合ポストの鍵をデスクに置いたら、この部屋とはしばしのお別れ。新しい人に可愛がってもらいなはれ。

 その後、鍵山さんから完成したらぜひ遊びに来てくださいというメッセージと共に、壁を塗り直している最中の画像が届きました。新しくなる部屋を思うと、私もワクワクしてきます。東京に行くタイミングで連絡を入れて、実際に足を運ぶことにしました。
 家に行く前に、移住支援金の受け取りに必要な書類を区役所に取りにいき、足繫く通っていた小道具屋さんに立ち寄り、いつもの定食屋さんに顔を出しました。
 定食屋を営む親子には鹿児島に移住したことは既に伝えてあって、常連のおばちゃんから「あら、久しぶり! 元気にしてた?」と声を掛けられました。変わらない風景にほっとします。
 いつものように定食をペロリと平らげ、歩いて数分のマンションに向かい、かつて自分が暮らした部屋のチャイムを鳴らしました。すぐに鍵山さんが笑顔で迎えてくれます。
 たたきに立つと、入ってすぐの深い藍色だった壁は、明るいオフホワイトに生まれ変わっていました。この部屋、こんなに明るかったっけ? 布製のハンティングトロフィーを飾って穴が開いていた正面の壁には、子ヤギを抱えた少年をかたどったセンスのいい陶器の壁掛けが飾られています。
なんでこの色を塗ってしまったんだと後悔していた洗面所の壁は、廊下とは微妙に異なるほんのりピンクがかったオフホワイトに変わっていて、そのこだわりも嬉しく思いました。
 私がリビングにしていた場所には、杉の木のダイニングテーブルが置かれていて、これがまた素敵。とりどりのカゴが棚に収められていて、ベランダには球根やハーブがすくすくと育っていました。さすが好奇心を掻き立てるものがあちらこちらに置いてあって、ついつい目移りしてしまいます。
 
 鍵山さんがケーキとお茶を出してくれて、お互いの近況を報告し合いました。家に来る人が皆、この部屋はいいと言ってくれると聞いて、冗談交じりにそうでしょうそうでしょうと深く頷きます。
「視える人に、この部屋は誰でも住めるわけじゃないって言われたの」
 思えば、野崎さんがそのまま住んでいたら鍵山さんがここに住むことはなく、野崎さんが住みたい街で物件を見つけたら、きっと不動産屋さんに仲介をお願いすることになっていたでしょう。そんな野崎さんにも鍵山さんにも、川村さんと出会っていなければ出会うことはなかったし、本当にいろいろな縁が結びついていることを実感します。
 この家を私に売ってくれたおばあちゃんのことを思い出しました。そもそも彼女が私を選んでくれていなければ、この優雅なティータイムもなかったはず。ふいにミシンが目に入って、そういえばと思い出しました。
「私の前に住んでいたおばあちゃん、洋裁の仕事をしてたんですよ。新築からその人が住んでいたから、鍵山さんで3人目」
「へえ……、洋裁」
 ふたりで思わず部屋を見渡しました。
 なんだか、おばあちゃんの思いも繋ぐことができた気がします。やっぱり縁ってあるよなあ。あるとしか思えん。少しでも高い値段で貸そうとか、少しでも安い仲介業者を探そうとか、そんなことをしたところでストレスは生まれても縁は生まれないもんね。
 それにしてもいい家だ。私には見せなかった表情に惚れ惚れしながら、程よく甘いスポンジを口に運びました。

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藤原綾

1978年東京生まれ。編集者・ライター。早稲田大学政治経済学部卒業後、某大手生命保険会社に就職するも、大企業の闇に触れて逃げるように宝島社に転職。ファッション誌の編集を経て2007年に独立し、ファッション、美容、ライフスタイル、アウトドア、文芸、ノンフィクション、写真集、機関紙……と、節操なく仕事を受けてきた結果、幅広い業界で編集・執筆活動を行うことに。近年もブランドムック『ANNA SUI COLLECTION BOOK』、雑誌『小学一年生』、漫画『ごろごろにゃんすけ』(村里つむぎ)、書籍『つくるひとびと』(秋山竜次/ロバート)、小説『海の怪』(鈴木光司)、カタログ『LAZY SUSAN』など、極端なノンジャンルで活動中。

インスタグラム @id_aya

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