よみタイ

潤色昼世界 真夜中の裏──山東京伝「青楼昼世界 錦之裏」をリメイクしてみた

上がる火の手

 窓の外から「火事だ」と叫ぶ声が、どんちゃん騒ぎと隣の禿たちの歌声に紛れて聞こえてきた。時計は夜四つ半(午後十一時)を指していた。予定よりちょっと早いのではないか。夕霧は伊左衛門を押し入れに一度隠してから様子を見ようとすると、ちょうど川竹が襖を開けてやってきた。時間通りではないことに彼女も狼狽えていたが、とりあえず伊左衛門と夕霧を逃すために戻ってきたようだった。川竹は遣り手のいない隙を見計らい、二人を引き連れて店を出た。

 西の方にある店が火を上げている。そっちに気を取られていると、今度は違う店から火が上がる。定刻より早く上がった火に気づいて、慌てた他の遊女たちがそれに続いているのだろう。次々と火が上がる。三人はただ混乱するばかりの新町の通りを、東に走った。ぽっくりを履かずに裸足で行く新町はいつもより大きく広く、夕霧は走っても走ってもどこにも行けない気がした。

 最中、伊左衛門が川竹ちゃん、と呼んだ。「本当に、ありがとう。こんなことになっているなんて、全然気づかなかった。まったく阿呆だね。川竹ちゃんがいないと僕ら、何ひとつできないよ」

「いいえ、そんなこと、ないです。私は──」

「私は何かひとつくらいできる」

 夕霧は立ち止まった。「どうしたの、夕ちゃん」と、二人を連れて先頭を走っていた川竹は、彼女に気づいて振り返った。

「私は文字が書けるし、三味線も、この立場だからやらなくなっただけで、新造の時はそれなりに得意だった。言ってなかったけど、算盤も好き。金の計算さえできずやりくりに詰まってしまうあなたと一緒にされたくない。それに、私はこの火事の計画を前から知っていたよ。成功を祈って塩を断っていた」

 一度、夕霧は深く息を吸い直した。冷たい空気が走って熱くなった肺を刺す。

「竹ちゃんのことを悪く言うひとと、勝手に『僕ら』って括られたくない」

慌てているのか苛立っているのか、伊左衛門は「今、そんなこと持ち出す場合じゃないだろ」と声を強めて言った。それから夕霧と同じように息を吸って、伊左衛門はゆっくりと、聞き分けの悪い子どもを諭すように続けた。

「それに、さっきちゃんと謝ったよね? 悪気はなかったんだって。悲しませるつもりもなかった。計画とかなんのことかわからないけど、こんなところで臍曲げないでくれよ。頼むから……」

 黙って睨みつけてくる夕霧に、伊左衛門は口を噤んで手を離し「わかった、ごめん」と短く言った。もっと激しく、ひどく、何か隠していたものを剥き出しにして言い返してくるかと身構えていたので、夕霧は拍子抜けする気分だった。しかし意外でもなかった。伊左衛門はそういう男だ。悪意がなかったのも、謝罪の言葉にも偽りはないのだろう。辺りは大火事だと言うのに、彼だけはずぶ濡れのような目でこちらを見つめる。

 このままいつものように、伊左衛門をゆるしたくなる。それでも、夕霧は立ち尽くす彼を置いて川竹の腕を引き、東の橋のほうへ、ひたすら走った。背後の花街では、火の粉が舞い、建物が倒壊する音がし、どこからか悲鳴が上がった。

それでも、ただ東の方角へ駆けた。

 時計はおそらく夜九ツ半(午前一時)を指している頃だろう。燃え上がる新町の門は空きっぱなしになっていたが、向こう岸はもちろん、新町橋の上にも川にも火消しや野次馬が殺到しており、向こうへ渡れそうになかった。

 夕霧はいっそ川へ飛び込もうと川竹に提案した。川竹はいつかどこかで放火計画の話は明らかになって、自分も足がついてしまうと言って夕霧の提案を聞かなかった。最初から逃げるつもりがなかったのだ。夕霧は一週間目を背けてきた彼女に向き合って、それ以上何も言わなかった。二人は門のそばの塀の下に座り込んだ。

「夕ちゃん、逃げていいんだよ。あんた何にも悪くないんだし」

「竹ちゃんがいないじゃん」

 簪も櫛も逃走中に落としてしまった頭を掻き、はだけた裾から膝を出して俯く夕霧に、そう、と川竹はため息をついて、塀に寄りかかった。着飾らない姿で身を寄せていると、二人は新町に売られてきたばかりの頃に戻ったようだった。

 どこにも行けないことはないが、どこに行こうと、塀の向こうには川竹がいない。芸事や算術ができたところで、彼女の世話がなければ生活もままならないだろう。胸の奥で激しく打っている鼓動を隣にいる川竹に聞かれないように、夕霧は背中を丸めて膝を抱えた。

「さっき、伊左衛門さんと何があったか知らないけど」

 川竹は額の汗を乱暴に拭いながら空を仰いだ。夕霧も、彼女の横顔の輪郭を、顎、唇、鼻、まつ毛、額、と視線でなぞりながら見上げた。煙の混ざった夜空は夕焼けのように火に染まって、星も見えない。

「なんかすごく、嬉しかった。かたじけないね、ありがとう」

 吉田屋の方角から、自警団、遣り手、喜左衛門たちの声と、街を飲み込んだ炎が迫ってきた。

〈了〉

【注釈】
(*1)願掛けのために、塩気のある食べ物をある期間食べないこと。
(*2)江戸時代に使われた針を用いた和時計(原作に描かれている二挺天符式時計など)は、針が動くのではなく文字盤が動く仕組みである。
(*3)女郎屋の一階にある張見世の格子。女郎はこの中に座り、客が外から品定めする。

【参考文献】
水野稔校註『日本古典文学体系59 黄表紙・洒落本集』(岩波書店1958)
セイコーミュージアム銀座オフィシャルサイト

 連載第14回は11/29(火)公開予定です。

1 2 3 4 5

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Twitterアカウント
  • よみタイ公式Facebookアカウント
児玉雨子

こだま・あめこ
1993年神奈川県生まれ。作詞家、作家。明治大学大学院文学研究科修士課程修了。アイドル、声優、テレビアニメ主題歌やキャラクターソングを中心に幅広く作詞提供。著書に『誰にも奪われたくない/凸撃』(河出書房新社)。

Twitter @kodamameko

(写真:玉井美世子)

週間ランキング 今読まれているホットな記事