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村井理子「犬と本とごはんがあれば 湖畔の読書時間」
実兄の孤独死をめぐる顚末を描いたロングセラー『兄の終い』のほか、翻訳書『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』、近刊『全員悪人』『ハリー、大きな幸せ』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』など、数多くの注目作を手掛ける翻訳家の村井さんが琵琶湖畔に暮らして十数年。
夫、10代の双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリー君と賑やかな毎日を送っています。
公私ともに古今東西の書籍にふれる村井さんは、日々何を読み、何を思い、どう暮らしているのでしょうか。
人気翻訳家によるエッセイ+読書案内。

川に身をゆだねた兄をめぐる記憶ー思い出はどこまで正確か

 過去の思い出や記憶には、色がついているのが一般的なのだろうか。私の場合は、はっきりと色がついている。色だけではない。におい、音。すべてがクリアな状態で、情景として脳内に残っていて、その様子は、見ようと努力すれば、すっと立ち上がってくる。とてもリアルだ。

 ここのところ数か月、過去の記憶を引っ張り出し、それを映像のように動かして、そして書くという作業を続けていた。幼少期の家族との記憶を、長いスパンで思い出すのは骨の折れる作業だったけれど、同時に、やろうと思えばできるものだとわかったし、ここまで鮮明に覚えていられたということは、よほど印象に残ったのだろうと、少しくすぐったいような、懐かしい気持ちになった。子どもの頃の感情の揺れに接したようで、なぜだかうれしかった。しかし、原稿をようやく書き上げて、徐々に不安になってきた。私が不安になった原因は、記憶の補完をしてしまったのではないかということだった。文章として起こしやすいように、つまり自分が楽に書けるように、無意識のうちに記憶を作り上げてはいないだろうか。そう疑ったのだ。

 何度も繰り返し思い出し、そして詳細を綴っていく。あまりにもしっかりとした記憶なので疑う余地はないと最初は思ったが、認知症となった義母が見えないものを見ていると主張するときの、決して揺るがない自信を思い出した。彼女の表情は、確実に「見て」いるのだ。だからこそ、自分の古い記憶を引っ張り出して、それを動かして書くということぐらい、脳は軽々とやってしまうことは明らかだ。何もないところから、人間の脳は鮮やかに存在しない情景を再生することができるに違いない。

 私たち家族四人は河原に遊びに来ていた。私は確か五歳ぐらいだったと思う。私たちが休日にやってきた安倍川は、静岡市葵区から駿河区に流れる川で、浅いけれど、川の幅は広い。時間帯によっては流れも速くなる。私の記憶は、この安倍川のたもとで母が叫んでいるところから始まる。母の必死の視線の先には兄がいる。兄は流れが速くなっていた安倍川に、どんどん入っていってしまう。いくら母が戻りなさいと大声を出しても、兄はいっこうにかまわず、岸から離れていく。私はその兄の後ろ姿と、母の後ろ姿を見ていた。

 母の悲鳴のような声はどんどん大きくなる。私の左手を握り、真横に立っていた父の顔を見上げると、父は何も言わず、鋭い視線を兄の背中に投げていた。

 母は、叫び続けた。タカ、戻りなさい! こっちに戻りなさい! そこから先には行ってはいけない。そこから流れが急に速くなって、深くなる。さあ、早く! 早くこっちへ!

 母はとうとう、靴を脱ぎ捨て自分も川に入っていった。母が穿いていた白いスカートが、川の水で濡れた。兄は母の声がまったく耳に届いていないようで、流れの先を見ながら、どんどん進んでいってしまう。タカ、早く戻りなさい、こっちへ! 早く! 兄はそれでも戻らなかった。

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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』(CCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
家族の実話を描く近刊のエッセイ『全員悪人』が大好評、話題となっている。
最新刊は『ハリー、大きな幸せ』(亜紀書房)、および『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)。

ツイッター:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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