2021.1.11
自分の言葉で書き残すことへの執着—なぜ人は文章を書くのか
どんなに強い愛も、慈しみも、願いも、容易に勝つことが出来ない相手が「死」だと思う。突然やってきて、周りの空気も読まずに、あっさりと命を奪い去っていく勝手なやつが「死」だし、その勝手なやつは、いつか必ずやってくる。誰のところにもやってくる。いつなのかわからないから、やっぱり怖い。どんな準備をすべきかと焦る。そういうことなのだなと、はっきり気づいたのだ。五十肩に苦しむ年代になって、ようやく辿りついたのがこんなにもシンプルだとは夢にも思わなかった。実は「死」なんて当然のようにいつも身近にいますという、そういう話だったわけだ。
この、当然のように身近にいて必ずやってくる、勝手で空気を読まないやつの存在が、私にひっきりなしに書かせているのだと思うに至った。日常生活を送るなかで頭のなかに次々と流れてくる文章を忘れないように書き留める理由は、この存在だ。なにごとも続かない私が、日々のできごとを文章で記録していくというその行為だけは、きっちりとやり遂げているのは、この勝手な存在に対抗するためなのだ。必ず終了させられるのであれば、その前にすべて残してやろうと思う。私の気持ちのすべてを、私が生きた証拠のすべてを、こと細かに記録し、残してやろうじゃないか。楽しいことも、悲しいことも、すべて書ききるという目標があるからこそ、書くことができるのだと気づいた。つまり私にとって書くことが、生きることと直結しているのだ。いや、直結しはじめたのだ。だからこそ譲ることができないし、決して譲らないという気持ちになっている。
何の変哲もない日常であっても、その瞬間は唯一無二だ。視界に映るありとあらゆる物の輪郭をなぞるように言葉にすることで、情景が立ち上がってくる瞬間が楽しい。残されたシンプルな文字列や簡単な写真の一枚が、雄弁に物語るさまを、私はずいぶん目撃している。そういう言葉を残すことができたらと考え、書いている。苦しいと言いつつ、楽しいのかもしれない。これから先も、できる限り綴っていこうと思う。一人でも読んでくれる人がいるのなら、このまま止まることなく、ただひたすら書き続けていこう。
さて、いきなり今年の目標のような話を延々と書いてしまったのだが、今回読んだのは近藤康太郎の『三行で撃つ』だ。なぜ人は文章を書くのだろうという答えが、本書にはこれ以上ないほど簡潔な文章で書かれている。「善く、生きる」ためなのだと。そ・れ・だッ! と声に出た。そして本書は、文章の書き方の指南書であると同時に、人生の指南書でもある。著者は文章塾を開いているそうだが、私も一升瓶を担いで通いたい気持ちになった。これから書くことを目指している人には、必携の一冊になるのではないだろうか。私もこれから、幾度となく開くことになる一冊だと確信した。
読み終わった瞬間、著者が真っ赤なアロハシャツ姿で散弾銃を構え、こちらに銃口を向けるイメージが鮮やかに脳内に再生された。年始から撃たれてしまった! こんなスピードで読み切った本はあまりない。
