よみタイ

やっぱり蕎麦はいい

『かもめ食堂』のおにぎり、『パンとスープとネコ日和』の様々なスープ。
群ようこさんが小説の中で描く食べ物は、文面から美味しさが伝わってきます。
調理師の母のもとに育ち、今も健康的な食生活を心がける群さんの、幼少期から現在に至るまでの「食」をめぐるエッセイです。

イラスト/佐々木一澄

ちゃぶ台ぐるぐる 第10回 やっぱり蕎麦はいい

イラストレーション:佐々木一澄
イラストレーション:佐々木一澄

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 三十年ほど前、一時期だが、蕎麦に凝ったことがあった。といっても打つのではなく、食べる専門である。たまたま引っ越した住まいの近くに、蕎麦店が三店あり、それをきっかけにして興味を持った。
 私がその場所に引っ越してきたのを知った、地元に長く住んでいる知人が、
「○○には行った?」
 と店名をいうので、
「どこにあるのか知らないです」
 と返事をした。すると、
「えーっ、住んでいる場所から一、二分のところだよ」
 と驚かれた。私は引っ越すと近所を必ず散歩してみるのだが、その店がある地域は未開拓だったのだ。
 早速、その人が連れていってくれたのだが、店内は二十席ほどで、蕎麦と酒を前にした一人で来店している初老の男性や、小学生くらいの子ども二人を連れた、家族四人で来ている客、すでに食事を済ませた作業服の男性四人がいた。近所の人たちが訪れる店という雰囲気だった。店には年齢がばらばらの、三角巾にエプロン姿の女性三人がいて、厨房の中には年配の男性と、顔が似ている彼の息子らしき男性がいた。
「ここは量が多いんだよ。特に天ぷらがすごい」
 そういいながら知人が視線を右にはずしたので、そのほうを見ると、ちょうど家族四人の席に、ざる蕎麦と天ぷらが運ばれたところだった。私が知っている蕎麦店の天ぷらは、三、四品ほどの小ぶりなものだったが、この店のものは、一人前でも小さくはない皿の上からはみ出るくらいの量だった。これだと家族四人でひと皿の天ぷらを分け合っても、満足できるのではないかと思った。蕎麦もおいしくて値段も高くなく、私はその庶民的な店がとても気に入っていた。
 私が住んでいたマンションから、その店とは反対方向に三分ほど歩くと、いかにも高級そうな店があった。周囲の蕎麦好きの話を聞くと、庶民的とはいい難いが、なかなかの店だというので行ってみた。たしかに店の造りもすっきりと洒落しやれた感じで、蕎麦もおいしくてそれはそれでよかった。しかし王道というか本筋を守ってか、蕎麦の量はざるにひと並べ程度で、分量としては一軒目の店の四分の一以下。値段は変わらないので、コスパの問題からいうと高めということになるだろう。お酒をたしなむ人は、それでよいかもしれないが、私はお酒が飲めないので、どうしても蕎麦の量が気になる。蕎麦は手仕事で、それによって価格が違うのは当たり前で、一概に高いのが悪い、安いのがいいというわけではない。基本的な私の好みはあるけれど、満足する物差しが店によって違っていい。それはそれでよい、のである。
 三店目は他の店よりも少し離れた、徒歩十五分ほどの距離にあった。店も大きく遠方から車で訪れる人も多かったようだ。蕎麦やつまみはおいしくいただいたが、つゆが甘めなので私の好みでは、他の二店のほうを優先したくなった。
 そんな話をしたら、担当編集者の女性が、
「つゆが辛い蕎麦店がありますから、一緒に行きましょう」
 と誘ってくれた。
「でもお誘いしたなかで、辛すぎて耐えられなかった人もいましたよ」
 と付け足したので、へえ、そんなに辛いのかと、興味津々で待ち合わせをした店に出向いた。
 有名店なので少し並んだけれど、十分ほどだったので、比較的スムーズに入店できたほうだろう。お店で働いている女性たちが、てきぱきして感じがよく、古いままの店構えもとてもよかった。周囲を見回し、こちらも昔からの伝統なのか、量が少なめのざる蕎麦を見て、
「もうちょっと食べたい気がする」
 とつぶやくと、そばにいた店員さんが、
「うちは大盛りはできないので、どうぞ追加してください」
 という。そういうシステムもあるのかと、他にエビの天ぷらを頼んで、蕎麦が運ばれてくるのを待った。
 それほど待たずに蕎麦が運ばれてきた。すでに追加をする気満々なので、すぐに口に運ぼうとすると、誘ってくれた彼女が、
「つゆはほんの少しにしてください。どっぷりとつけてむせた人もいましたから」
 と念を押す。そんなに辛いのかとちょっとびびりながら食べてみると、たしかに私が今まで食べたなかで、いちばんつゆが辛かった。しかし甘いよりはきりっと辛いほうがいいので、
「おいしいですよ。たしかにどっぷりつけると危険かもしれないけれど、そもそもそんなにつゆはつけないですよね」
 私がそういうと彼女は、
「昔はもっと辛かったらしいんですけれど、お客さんからいわれて、少しマイルドになったようです」
 マイルドになってこの辛さなら、以前はどれくらいだったのかと興味がわいてきた。

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群ようこ

むれ・ようこ●1954年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業。広告会社などを経て、78年「本の雑誌社」入社。84年にエッセイ『午前零時の玄米パン』で作家としてデビューし、同年に専業作家となる。小説に『無印結婚物語』などの<無印>シリーズ、『しあわせの輪 れんげ荘物語』などの<れんげ荘>シリーズ、『今日もお疲れさま パンとスープとネコ日和』などの<パンとスープとネコ日和>シリーズの他、『かもめ食堂』『また明日』、エッセイに『ゆるい生活』『欲と収納』『還暦着物日記』『この先には、何がある?』『じじばばのるつぼ』『きものが着たい』『たべる生活』『小福ときどき災難』『今日は、これをしました』『スマホになじんでおりません』『たりる生活』『老いとお金』『こんな感じで書いてます』『捨てたい人捨てたくない人』『老いてお茶を習う』『六十路通過道中』、評伝に『贅沢貧乏のマリア』『妖精と妖怪のあいだ 評伝・平林たい子』など著書多数。

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