2024.3.13
浅草での味
群ようこさんが小説の中で描く食べ物は、文面から美味しさが伝わってきます。
調理師の母のもとに育ち、今も健康的な食生活を心がける群さんの、幼少期から現在に至るまでの「食」をめぐるエッセイです。
イラスト/佐々木一澄
ちゃぶ台ぐるぐる 第3回 浅草での味
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集英社から本を出していただいた、『小美代姐さん花乱万丈』『小美代姐さん愛縁奇縁』のモデルである、私の小唄、三味線の師、春日とよせい𠮷師匠が、一月に九十九歳で急逝された。二〇〇〇年にお稽古をはじめ、それまで三味線を触ったこともなかったのに、発表会で長い曲が弾けるようになるまで指導していただいた。師匠のキャラクターがあまりに面白く、愛らしいので、本に書かせていただけないかとお願いしたのである。その後、二〇〇八年に母が倒れてしまったため、それ以来、お稽古とは遠ざかっていたが、会のときにお花を出させていただくのと、年賀状でのお付き合いだけは続いていた。
思い出すのは、ある日、お稽古に行くと、
「昨日食べた牡蠣にあたったのかしら。どうも胃の具合がおかしいのよ」
とおっしゃったことだ。
「友人が牡蠣にあたったことがあるんですけど、もう苦しくて大変だったといっていました。今の師匠のように正座をすることさえ、難しいと思いますけれど」
と話をすると、
「あらそうなの」
と、師匠はそれでも浮かない顔をしている。そこで、
「どれくらいの量を召し上がったのですか」と聞いたら師匠は、
「えーとね、二十五個」
といった。
「えっ、二十五個?」
私はびっくりして声を上げ、
「あのう、二十五個も召し上がったら、胃の具合も悪くなるのではないでしょうか」
と笑いをかみ殺していると、師匠は、
「ああ、やっぱりねえ」
と苦笑していた。当時の師匠は七十代後半だったと思う。とにかくお元気な師匠だった。
師匠は御飯を規則正しくしっかりと食べる方で、
「何でもいただきます」
と当時からきっぱりいっておられた。
「医者から八キロ痩せろっていわれてるんだけど、そんなの無理なのよ」
とお稽古の合間に不満そうにおっしゃっていたのをよく覚えている。
浅草生まれ、浅草育ちで、おいしいお店もご存じだった。本の御礼にと、編集者と一緒にふぐをご馳走になった。由緒ありそうな古い木造家屋で、当然、床の間もあり、昔に逆戻りしたような感覚でおいしくいただいた。また教えていただいた鮨店もネタが新鮮で、そのうえ値段がびっくりするくらい安かった。評判になっている店があり、
「そこはどうですか」
とたずねると、師匠が首を傾げて、
「うーん、どうかしらねえ」
といったので、ああそうなのかと納得したこともあった。
お稽古から遠ざかって、ご挨拶にもうかがわなくてはと思っていたのだけれど、師匠にはいつもお元気なイメージしかなかったので、先延ばしにしてしまった結果、ご挨拶ができないまま旅立たれてしまった。それが心残りでならない。
お通夜にはうかがえなかったので、告別式に参列すると、一緒にお稽古をしていた方にも会えて、懐かしい~といいあった。彼女たちは私と違って、ずーっとお稽古を続けていた。
「何年になりますか」
と聞いたら、
「二十年なんですよ」
と返ってきた。私はお稽古をお休みしてから、十五年経ってしまった。途中から彼女たちがお稽古に通ってくるようになったので、考えてみたらたしかにそのくらいの年数になる。本当にあっという間である。
「師匠は一年前までお稽古なさっていたんですよ」
と聞いて、すごいとしかいいようがなかった。
「師匠がいつもお元気なものだから、私もこんなことになったのが信じられなくて」
身近にいた人たちさえそう思ったようだ。
師匠の娘さんの、踊りの浅茅流家元、浅茅与志江先生によると、師匠は少し前から胆石の治療で、入退院を繰り返していたという。師匠の誕生日が一月五日なので、
「誕生日は家で祝おうね」
といって、一月五日にはバースデーケーキを家族で食べたのだそうだ。ずっとそばについて一緒の部屋に寝ていた一週間後、与志江先生が、
「朝御飯、食べる?」
と聞いたら、
「少し食べる」
とおっしゃって食事を摂られた。そして何時間か経って、先生がふと見たら、
「あらっ? 息をしてない?」
と驚き、確認したら亡くなられていたのだというのだ。
「本当にね、静かに亡くなったのよ」
と先生はおっしゃっていたが、大往生の見本のような旅立ちだったとうなずくしかなかった。きちんと食べるべきものを召し上がってきていたからこそ、亡くなる直前までしっかりなさっていたのではないか。先生自身も体調不良の時期があり、
「『私が入院している間は、ちゃんと生きてるのよ』っていい渡して病院に行ったのよ」
と笑っていらしたが、ご自身の体調不良と師匠の介護が重なって、大変だったと思う。
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