2025.7.17
演劇というフィクションにケアに携わる人たちの肉声を入れる。演出とリアルの境界線を曖昧にすることで伝えられること@サテライト・コール・シアター【後編】
これらには、視覚・聴覚障害のある人とない人がともに楽しむ鑑賞会や、認知症のある高齢者のための鑑賞プログラムなど、さまざまな形があります。
また、現在はアーティストがケアにまつわる社会課題にコミットするアートプロジェクトも増えつつあります。
アートとケアはどんな協働ができるか、アートは人々に何をもたらすのか。
あるいはケアの中で生まれるクリエイティビティについてーー。
高齢の母を自宅で介護する筆者が、多様なプロジェクトの取材や関係者インタビューを通してケアとアートの可能性を考察します。
介護や育児といった自分以外の他者への「ケア」は、それが家庭という閉ざされた空間の中で行われた場合、個人的な問題として扱われるようになります。
それゆえに、ケアラーが抱えている悩みや、不満、葛藤は社会的に届かない声として見過されていることも多いはず。
この「声」に丁寧に耳を澄ませ、そして演劇というフォーマットに落とし込んだ新しい上演プロジェクトが東京八重洲にあるギャラリーで開催中です。前編に続き、後編では企画・演出した竹中香子さんのインタビューを通してプロジェクトの意義を掘り下げます。
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不確定な要素に対応するホーム・ケアリストと俳優の共通点
上演プロジェクト「サテライト・コール・シアター」を企画・演出した竹中香子さんは、この連載の6回目(5月23日更新)、埼玉県東松山市にある高齢者施設「デイサービス楽らく」での演劇公演『ケアと演技』のレポートに登場している。
『ケアと演技』は、アーティスト・イン・レジデンスとして施設に滞在する中で、介護実習生という”役”を得て、入浴介助などのサポートを経験し、実父の看取りの物語と織り交ぜて創作したものだった。父に寄り添ってくれた訪問介護チームに感銘を受けたことからケアについて関心を抱くようになり、滞在制作を経て、改めて父の死と向き合うことができたという。
さらに今回は一般参加者を募り、演劇プロジェクト「サテライト・コール・シアター」を行ったのはなぜか、その理由を尋ねた。

「父親の介護が終わり、母は元気なのでケアする対象がいなくなって。でも30代後半の同世代の女性を見渡すと、子育てなど誰かをケアしている人ばかりで。日本にいると、働く時間を含めて24時間自分の時間として使えることに罪悪感を感じてしまうんですね。一方で罪悪感を感じるのはなぜだろうという引っ掛かりもありました」
そのような思いを抱きながら前述のアーティスト・イン・レジデンスをした時に、効率を最優先するのではないケアの現場を見て、演劇との共通点を見つけた。介護職員では、専門的な方法に沿って安全かつ手際よく行動しつつも、高齢者の心身の変化など、その都度起こることに臨機応変に対処しなければならない。
「不確定な要素も含めて高齢者と関係性を持つということだから、ただ効率的、合理的にやろうとしたらうまくいかない。そのことを皆さんわかって体が動いている。それはとてもクリエイティブな行為ですが、本人たちは誰でもできることだとその価値に気づいてないことも多かった。
一方で俳優も、練習してきたものを舞台上でそのままやるのではなく、稽古してきたものを全部忘れて舞台に立ち、舞台上で起きることに反応するような、決まりきっていないことに体が開いているのが良い俳優なんですね。そう考えると、私自身は日常生活でケアに関わっていなくとも、演劇を通じてケアの状況に身を置くことができるんじゃないかと思うようになったんです」
ケアの物語に耳を傾け、社会に声をつなぐ鑑賞者
「サテライト・コール・シアター」では、鑑賞者はコール・センターの臨時職員として、ホーム・ケアリストの物語を聞く側に徹する。竹中さんは、鑑賞者の役割をどのように位置付けているのだろうか。
「他者の話を聞くとき、自分だったらこうするとか、自分の物差しに当てはめて解釈・要約してしまうことも多いと思うんですね。そうではなく、その人が話しているままに受け止める役割を、通話の10分間引き受けていただこうと考えました。
言葉の向こうにある風景や気配を想像したり、声になっていない部分にも耳を澄ませてみてほしい。ケアの経験がある方には、他者の話として聞いたら距離感が変わって新しい発見が生まれるかもしれないですし、ケアの経験がない人にとっては普段は聞けない問いに出会えるかもしれません」
さらに、通話の後に「ケアの業務連絡メモ」を書くことで、声を聞いた自身の感情にもそっと目を向ける時間が生まれる。2つ目の質問「この通話で、社会に“報告すべきこと”があるとすれば、それはなんですか?」、3つ目の質問「あなたが、“聞こえなかったこと”にしてきたことはありますか?」については、個人的な物語を普遍的な問いにするためのステップのようだ。
7月13日に再訪すると、「声の中継地点」はメモで一杯になり、後ろの壁面にも広がっていた。「これらの声は、最終的には社会に届いたらいいなと考えています」と竹中さん。筆者もメモを読みながら、これまで声にならなかった声に、鑑賞者が代わる代わる耳を澄ませることから社会を動かすこともできるかもしれないと希望が湧いてきた。この「声の中継地点」の景色の変化は、声を挙げたホーム・ケアリストたちのケアにもなるだろう。

「個人的なことは政治的なこと」というフェミニズム運動のスローガンがある。家庭や恋愛といった私的領域における女性の経験が、男性中心の社会構造の中で抑圧されているという認識から生まれた言葉だ。
「個人的なことも掘っていくと社会的な大きな記憶、コレクティブみたいな記憶につながっていったりすることがあります。だから、作品制作の時には、誰か特別な人の物語じゃなくて個人の物語に重きを置くようにしています」

セッションの際もホーム・ケアリストたちは個人的な話をした。しかし、そのモヤモヤの経路を探っていくと社会構造に行き着く。ホーム・ケアリストが「自分が悪いのかもしれない」などと言っていた話が、ナラティブパートナーとの対話を通して改めて考えることで「私個人の問題だけじゃないかも」という気づきにつながることもあったという。
「ケアする側、される側の誰も悪いわけではないのに、自分がこうすればよかったんじゃないかと、それぞれが思いを抱えている。でも俯瞰してみれば、社会構造に無理があることも多いんです。最後に声を届ける場所は、“個人”ではなくて“社会”だよ、という思いを込めて、『声の中継地点』を作りました」
こうした仕組みを工夫することで、当事者を矢面に立たせなくても、物語を聞いた者が自らの言葉にして「声」を増幅させていくことができるというヒントにも思えた。